赤い傘の下、ただ柔らかいだけの笑顔が見下ろして、そして手招きしていた。


















 
       『きみはしらない』



















 「お入りなさい」
「…放っておいて」
じろ・と少しだけ見やって、しゃがんだまま。黒い夜の闇の中、墨衣はそこに溶けそうだったけれど手にした赤い傘が妙に浮かび上がって見えていた。その下の、憂いに満ちたような色の瞳。かすかに白い軌跡を残しながら降りそそぐ雨でふつふつと切られる視界の、その向こう。
 苛々する。
 「…あのね。まだ小雨ですが、もうそろそろ本降りになりますよ。まだ本調子では無いでしょう、今は休みなさい」
「平気。法師さまこそ、寝てれば」
また下を見る。盛られた土、載っている武器。少し欠けて、汚れて。この下に埋まっている人が持っていた時はこんなじゃなかった。
「せめて雨避けの努力ぐらいしたらどうですか。この傘――かごめ様が持ってきたものなんで見慣れないと思いますが――、貸しますから」
「要らない」
「……。」
ため息。少し呆れたような目線を、睨んで返す。
「ずっと濡れているつもりですか」
「濡れても良い、ぐらいのつもりだよ」
「風邪を引きます」
「平気」
「平気じゃないだろ。」
丁寧語が引っ込んだので少し驚いてその顔をまじまじと見る。闇の中の白い顔は、ふうと息を吐きそうに薄く口を開いて、瞼を下ろして、言った。

「お前は、夜の雨の冷たさを知らないんですよ」

 その声はとても静か。低くて、緩やかな抑揚。呟きに似て場に響き、雨の中へ消えた。
 それから浮かべた微笑があんまりに柔らかくて、言葉を失う。
「まだ許してくれないくせに。私だろうがかごめ様だろうが犬夜叉だろうが、…まだ、なんでしょうに」
「…だから、何よ」
「そんなに冷えてどうするんですか。たった一人で、どうやって温め直す気ですか、その身体。」
「……」
目を見開く。そんな珊瑚の様子を見て取ると、また弥勒はやんわり笑った。
「戻りましょう。今なら、まだ、囲炉裏でも温められますよ」
そうして差し出された手を、…取ることはまだ出来なかったけれど、でも珊瑚はようやく立ち上がった。





 このひとにも、あったのだろうか。
 雨に打たれることが。ただ打たれて、打たれっぱなしで、闇の中ずっと雨の音に意識をゆだねることが。

 雨のしずくの中にぬるい涙を溶かしたことが、あったのだろうか。








(その時凍えた身体はどうやって温めたの)










 考えたけど、訊きはしなかった。



































 「――どこ行くの」
放っておいたらそのまま闇に溶けてしまいそうだった黒い背中に言葉を投げる。ぴたりと足が止まって、相手はゆっくり振り向いた。翳の無い笑顔。ああごまかす気だな・とぼんやり思う。それで、わざともう一度、同じことを繰り返し言った。
「どこ行くの」
「…すぐ戻りますよ」
「そういう問題じゃない。…雨、まだ酷くなるよ。傘も持たないでどこ行く気なの」
「や、どこでもいいんですけど」
「……」
嘘とごまかしと嘘と嘘とごまかしと。そんな言葉たちの合間、不意にバカがつくぐらい正直なのを混じらせるものだから呆れる。赤い傘を差して(いつか弥勒が持ってきたのと多分おなじ)、ゆっくり近づいた。言う。
「濡れるでしょ。もう秋も終わるんだよ、冷えるよ」
「大丈夫ですよ」
苛々。ああもう、前とはまるで逆。まるであべこべ。

 一度言ったことぐらい、貫き通せよ。

「法師さま」
「はい?」
「――…“夜の雨の冷たさを知らない”の」
「……。」
目を丸くした弥勒は、もう目の前。その目を見上げて、重ねた。一言だけ。
「帰ろう?」
しばしの、沈黙。ややあって、弥勒はゆるゆると笑みを浮かべた。今度は苦笑に近い、多分本音の。

(ああこの人の本音の笑顔はいつも苦笑だ)


 「…敵いませんなあ、珊瑚には」


 そうしてゆっくり歩み寄り傘の下まで来た弥勒を、見上げたままで珊瑚も少し微笑った。

























 「でも、前と少し違うこと」
「え?」
「今は頼れますよね、少しぐらい」
「……」
目を丸くして見上げる。目が合うと、にこ・と笑うその動作はいつも通り。自分が驚くと、そしてそれを察するといつもこの人はこんな風に笑うのだ。
 ため息。
 ゆっくり手を伸ばした。伸ばして、白い頬にそっと触れた。一瞬怯んだように退きかけたそれをちゃんと捉えて、そしてひやりと伝わってきた感覚に眉をひそめる。
「…やっぱり冷たい」
「……そうですか」
ぽつりと言った少女にそれだけ言って、笑顔は浮かべたまま。
 思っていた以上に冷えていたらしい頬が感じた彼女の手の体温は熱くて、その感触が優しくて。

 少し、動悸。

 「…珊瑚」
「何?――…」
ふわり。音があったとしたらきっとそんな感じ。呼ばれて返事をして顔を上げて、相手の顔を見たと思った瞬間にはきゅっと抱きしめられていた。
 こめかみに感じる頬だけが冷たくて、口元の触れた首筋はむしろ熱かった。やんわりと身体を包んでいく体温、暖かさ。
 あああったかい、そう思った。いつの間にか自分の身体も冷えていたらしい。目を閉じて、ただ感じる温度に心を澄ませる。
 ふいに、密着していた頬がゆっくり離れていった。この人にしてはあっさりしているなと思いながらぼんやり目線を上げたら、まだこちらをじっと見ていることに気付いた。
 まだ何か、ありそう、だ?
 きょとんとして、数度瞬き。そんな珊瑚の様子をしばらく見つめて(何かに躊躇して?)、それから一瞬瞼を下ろしてふっと息をついた。あの時と似たしぐさ、変わらない。ぼんやり思う。
 ふわり。やっぱり、音があったとしたらそんな感じだった。もう一度近づいた顔は今度はまっすぐ珊瑚の目の前まで来て、それからなんの衝撃もなしに重なった。
 今更のように雨音が耳をつく。目を見開いて固まると、手の力がついに抜け切ったのかするりと傘が滑り落ちてしまった。肌を刺す冷たい水滴、それでも離れることは無い。
 夜の雨が冷たい、それは確かに本当だった。絶え間なく注ぐ雨は、肌を伝うたびにその部分の感覚を薄れさせる。あっという間に頬や腕、足などの触覚が麻痺した、それでも身体は、密接した体と腕に捉えられた背中とそして唇は。

 あつい

ぶらりと力の抜けていた腕をゆっくり上げて、遠慮がちにだがその胸の袈裟を捉えた。雨に温度を奪われはしたが、温かい部分はますます温かくなる。きゅっと衣を握ると、相手のほうの腕の力も強くなった。いとしいいとしい、愛しきれない。





 冷たい雨と口付けの熱との温度差。
 それは鮮やかすぎて眩暈がしそうだった。
























 「――風邪、引くね」
暫くして呟いた言葉に、弥勒は少し微笑んで。

 それでもいい・と低く彼女の耳元に囁いた。






















                                -----------------End.
----------------------------------------------------------------------

 『よかった。』更新したときに日記で呟いてた「結構気に入ったっぽいネタ」です。なんとかまとまったんでトップ更新ついでにUPー。増した糖度が日朝の腐り具合を具現化してますね(ぇ) ちょっと触るだけの軽いキス描写で悶えてたあの頃が嘘のようだ(戻れ今からでも遅くな…遅いか(ぁ))

 とりあえず最初の方ののんびりしたやりとりが書きたかった感じです。あとお気に入りは珊瑚の「帰ろう?」です。アニメ犬の『珊瑚目指してオンリーユー』ラストみたく可愛くおずおず見上げてくればいいよ!(何言ってんの) あ、最後のべたべたは正直おまけです。ぶっちゃけ要らないんですけどどうしても甘いの書きたかったんだ……!(腐ったなぁホント)