『惑い夜』
賑やかな人々のざわめき。
もう日も暮れるというのに、目に眩しい光の群れ。
――…それら全てが、一行にとっては異常そのもの。
「のう、弥勒ぅ。」
肩に乗せた子狐は、至って純粋な瞳を向けてくる。だが、それに答えるべき法師は、いささか頬の筋肉が引きつるのを禁じ得ないでいた。
「……なんでしょう?」
「なんで、ここはこんなに明るいんじゃ?」
「……他の街とは違って、夕暮れからが一番人の集まる街だからですよ。」
「じゃあ、なんで宿屋の前には綺麗な女が必ずうろうろしとるんじゃ?」
「……そりゃ、商売中なんじゃないですか?」
子狐の質問に対して自分の発した言葉に、いちいち隣の退治屋の娘が鋭く冷たい視線を投げかけてくるのが、見ないでも分かる。……だが、他に言いようはない。だからこそ、彼女――珊瑚も、口に出したりはしないのだ。
「商売って、なんの商売じゃ?そういえば、着飾っとる女以外には男しかおらんようじゃが、変な街じゃのー。」
…無邪気すぎて、きちんとその疑問に答えてやる気にもなれない。弥勒のついた盛大なため息は、冷たい外気であっという間に冷やされて、真っ白く色付いた。
そう、ここは―――……色街。
もうすぐ真冬も近い。そんな時期に、随分と北の方へ来てしまったことは、少し後悔しないでもない。だが奈落らしき邪気が北東へ向かったと聞けば、行かないわけにはいかなかった。
それでもやはり温かい寝床はあるに越したことはなく。
人々が灯す明かりを見つけた時は、当然、一行全員がほっとした。特に、一行の中ではもっとも野外生活に抵抗力がないと思われるかごめがしきりにケホケホと咳き込んでいたものだから、これに飛びつかない手はなかった。
が、しかし。
そこが遊郭やら春宿しか宿泊施設のない色街となれば、ワケが違う。
「……どうします?」
きょろ、と一行の顔を見渡して見るも、結果は明白。犬夜叉は普段にも増した仏頂面でわずかに頬を赤くし、かごめは明らかな不満顔で時折咳をして、珊瑚はどんな名刀より斬れそうな素晴らしく鋭い目つきでこちらを睨み。唯一ただ一人、いや、一人と一匹もしくは二匹――七宝と雲母だけが、きょとんと瞳を丸くしている。
とは言っても。
「……今夜も、野宿にします?」
こう言われると、
「………。」
全員がさらに顔を曇らせて黙り込む。
雪すら降りそうなこの寒さ。
目の前の温かい寝床を前にして、凍える夜を選ぶというのは……ちょっと。
「……なーんでそんなにみんなして悩んどるんじゃ。のう、雲母。」
みい、と退治屋の手の中で返事をした猫又に向かい、主人はただただ苦笑い。
「……致し方ない。覚悟を決めて、そこらの春宿にでも入りましょう。」
溜息と共に言い放った弥勒に向かって、瞬間的に全員が目をむく。
「ちょっと、弥勒さまっ!?」
「あんた、一体何を言い出して……っ!」
「てめえこのスケベ法師、何考えてやがる、何をッ!!」
憤る人々に向かい、弥勒は冷静に、ただ一言。
「だって、野宿はイヤなんでしょう。」
その後の沈黙が、肯定の証だった。
「じゃあ、誰と誰が組みます?」
「は?」
「へ?」
「え?」
さも当然と言わんばかりに切り出された言葉に、メンバーは間の抜けた声を上げた。
「組むって、何を?」
「何言ってんですか。部屋割りですよ、へ・や・わ・り。」
弥勒の言葉に、一行は一瞬きょとんとし、そして問う。
「……って、一部屋取っていつもどおり雑魚寝するんじゃ……。」
「あのね、これから泊まろうとしているのはそこら辺の宿屋とは違うんですよ。男女で二人ずつにしないとまずいでしょう。」
瞬時に、犬夜叉の耳がピンと立ってかごめが大きく咳き込み珊瑚が顔を真っ赤に染め七宝が目を丸くした。
「だっ、男女ぉ!?」
「二人!?ちょっと待て、てめーいい加減なこと抜かして……」
「何がいい加減だ。いいか、ああいう所はな、ちょっと珍しい事するとあっという間にあらぬ誤解をされて噂になるんだ。妖怪連れのしかも四人一部屋なんて言ってみろ、どんなふうに解釈されても知らんからな」
まるで一般常識を説くようにすらすらと言い返されて、犬夜叉はあっという間に詰まる。
「ちょっと、なんで法師さまはそんなに詳しいんだよ。」
じろ、と睨んできた珊瑚に温かく微笑みしかし問いには答えず(要するにうまくごまかした)、弥勒は続けた。
「さて。で、どうします?」
余裕たっぷりの笑みを浮かべた弥勒を、少し恨めしそうに見遣りながら、犬夜叉は言った。
「……んじゃ、俺はかごめと組む。」
「…うん、それが妥当だよね。」
「……ねえ、それってあたしに一晩中野放しの法師さまと一緒にいろって事?」
「大丈夫じゃ、珊瑚!おらと雲母が一緒にいる!」
「しまった、こいつらがいたっ!」
「ちょっと、今なんか言った?」
「いや珊瑚そんな、脇差し即座に構えなくても……。」
そうして、あっという間にミニコメディと化す会話を延々としながら、ひたすら地味で小さい宿を探す。かごめと珊瑚がいるため、郭の女達が寄ってくることはないのだが、辺りに漂うきつい香の匂いは犬夜叉にとっては充分イヤなものである。普段の倍も硬い表情で、黙々と歩いていた。と。
「どうした、犬夜叉。これから一晩、理性を保てるか不安なのか?」
匂いが原因と知りつつ、弥勒が軽く言った。
そう、ほんの軽い冗談だったのである。が、しかし。
「ばっ、んなわけねーだろ、かごめなんか大して色気があるわけでもねーしっ!!」
耳まで真っ赤に染まって――……否、犬耳は染まらんか……――犬夜叉が叫んだ言葉が、少々かごめの心を突き刺した。
本心ではない。そんなわけがない。いつも誰より自分を心配してくれて、誰より温かく寄り添ってくれる人。そんな彼女は、ときどき息が止まるくらい綺麗に見えて、あっという間に頬が染まる。
それが故に、弥勒の言葉は的を射すぎていた。だから、思わず心と反対のことを叫んでしまったのだ。
しかし偶然にも、それはほんの少しかごめの悩みに引っかかってしまっていたのである。
「……そ―――よね、あたしなんてここにいる女の人たちよりか全ッ然幼児体型だし、珊瑚ちゃんみたいに大人っぽくもないわよねっ。」
「ああ?」
「え、あの、かごめちゃ……」
「かごめさまは、充分いい体つきだと思いますが……」
「お、おい、かごめ……」
「い――わよ、どうせあたしなんかっ……桔梗みたいに、綺麗でもないし。」
最後に付け足された言葉に、その場の者全員が押し黙る。
犬夜叉は、とりあえず自分がまずいことを言ったとは理解でき、なんとかフォローしようと試みた―…らしいが、まあフォローになるはずもない。
「あ、あのな、そりゃおめーは色気はねーけど……」
のちに、その場にいた人々はこう語った。
“あの瞬間、空気が割れる音がした”。
「…だぁから悪いわねって言ってんでしょっ、ばか――っっ!!」
町中に響き渡る怒声に、行き交う人全員が一瞬身を震わせる。むろん、一行メンバーも同様であり、犬夜叉の耳は水平に伏せった。
「もういい、いいわよっ、あたしやっぱり珊瑚ちゃんと組むっ!!」
そうして珊瑚の腕を引っ掴むも、弥勒が慌てて止めに入る。
「あの、かごめさま、そんなことしたら多分“その気”があると勘違いされ……」
「じゃあ弥勒さまでいいっ!」
即座に返された言葉に、一行は固まった。
「おいかごめっ!お前自分が何言ってるか分かってんのか!?」
「かごめちゃん!正気なの!?」
「かっ、かごめさま!?あの、ちょっ…………」
「いくわよ、弥勒さまっ!すいません、この人と一部屋借りますッ!」
「かごめさまぁ………」
ずるずるずると、なかば引きずるようにして、かごめと弥勒の二人は廊下の奥へ消えていった…。
「いっ、犬夜叉!早く説得しないとっ……」
珊瑚が慌てて言う。しかし返ってきた声は至極静かだった。いや、何か強い感情に震えてそれ以上荒ぶる余裕すらない、という感じ。
「……上等じゃねえか。」
「はあ?」
「あんのやろー、おれよりあの弥勒の方がいいってか!ああそうかい、んじゃこっちだって構うもんかってんだ!行くぞ、珊瑚ぉ!!」
「ちょちょっ、ちょっとっ!!落ち着け、落ち着けってば……」
慌てる珊瑚の必死の声も聞かず、犬夜叉は珊瑚をかごめ達とは反対側の廊下に引っ張っていった。
「……おらたち、どっちに行くべきじゃろうのう……。」
「みい。」
しばし迷った後、七宝と雲母は、かごめと弥勒が消えていった方の廊下へと進んでいった。
「……どお?そっち。」
風呂に行こうと必死で説得して部屋から出てきた珊瑚は、こちらも同じ事を言って部屋から出てきたらしい弥勒に小声で聞いた。
「……駄目ですな。もう意地になっちゃってるんですよ。」
「全く、素直じゃないんだから……。」
珊瑚も人のことはいえんだろう・とは、流石に口には出さず、とりあえず一言素早く言ってその場を離れる。
「……風呂場で、なんとかしといて下さい。こっちもなんとかしますから。」
「わかった。」
約三十分後。
とたとたと廊下を歩いていると、反対側から自分と同じように宿の浴衣に着替えた湯上がりの弥勒が来る。
「……どうだった?」
「……すまない、駄目だった。」
「なら丁度良いよ、こっちもだ。」
くす、と少し笑ったものの。
「……ま、諦めずに部屋で続けましょう。このまんま鬼のようなかごめさまと一晩一緒じゃ、私や七宝の神経がもたん。」
「そうだね。」
「それにしても………」
「?何。」
湯上がりの珊瑚は、また普段とは少し変わって綺麗だった。
肌が軽く湿って艶やかで、髪からは時折雫がぽたぽたと垂れる。ほんの少し赤く上気した頬が何とも言えず可愛らしくて、思わず手がそれに触れようと動きかけた。おまけに、春宿独特のはだけやすく出来た浴衣を身に着けているものだから、たまったもんではない。
「……早く、元通りになって欲しいもんだ。」
「はあ?もう、何言ってんだか……。」
本気で何も分かっていない風の珊瑚の言葉に、ふっと笑んだだけでなんでもないと言い、弥勒はその場を後にした。
「……変なの。」
彼女が彼の本当の思考を知ることは、恐らく一生ないだろう。
「ね、犬夜叉ぁ。も一回謝れば?今ならきっと、かごめちゃんの頭も冷えてると思うし。」
小窓から空の月を覗きながら、やんわりと促してみるものの。
「うるっせえな、いいだろ、別に。」
一人だけ浴衣を着けず、いつもの衣で通している頑固な少年に、珊瑚は溜息だけを漏らした。
「……ったく、世話焼けるんだから……。」
「んだよ、おれはなあっ……」
「法師さまよりもイヤって言われてスネてるんでしょ。」
黙り込んでしまった犬夜叉を横目で睨み、床のちかくの行燈に灯を灯す。
「かごめちゃんは、本当にいい子なんだから……」
ぼう、と、ぼやけた光が珊瑚の顔を照らす。
「……もっと、大事にしてあげてよ。」
濡れた黒髪はいつになく艶を帯びて輝き、俯いているため伏せがちに見える目がきらきらと光を反射する。薄紅色で少し濡れたような唇や、軽く浴衣がはだけて覗いた胸元が目に入って犬夜叉は顔を赤く染めた。勿論、珊瑚の言葉などほとんど頭に入っていない。
と、珊瑚の口元が、むう、と結ばれた。
「聞いてんの!?人がせっかく一生懸命話してるってのにさ!!」
「へ!?あ、ああ…って、いや、その……」
「あ〜、やっっぱり聞いてないっ!」
あからさまに怒りながら、だからねーと自分の論理もとい説教を最初っからやり直そうと身を乗り出してくる珊瑚に、犬夜叉はますます頬を染めながら傍にあった据え置きの自分の分の浴衣を引っ掴んで珊瑚に投げつけた。
だから、ただでさえはだけてんのにわざわざ前に出てくるなってーの。
「いいからそれ被れっ、お前っっ!!」
「何それ、何するんだよっ、ちょっと!」
「あのなぁっ!!」
苛立ちと羞恥心の勢いそのまま、掴みかかりそうな勢いで珊瑚にぐいっと近づく。
「お前はっ、俺が襲うかもとかそーゆーことは少っしも考えねえのかっ!」
しかしその剣幕にも負けず、むしろ吹き出しそうに、
「馬鹿じゃないの。あんたがそんなことするわけないの、七宝にだってすぐ分かるよ。」
そう言われるといつも生意気言ってくる子狐の顔が浮かんで余計に腹が立ってきた。
「じゃー今ここでもし俺がお前襲ったらどーすんだっ、お前の力じゃ俺には勝てねえぞ!?」
売り言葉に買い言葉のようなもので、あまり何も考えず言ったことなのに、突然彼女は黙り込んでそして神妙な顔つきのままぽつりと言った。
「怒る。」
「そーだろそーだろ、怒る以外できな…って、はぁ?」
「だから、怒る。だって、そんなことあんたがしたら…」
投げつけられた浴衣をぐっと握って、
「…そしたら、きっとかごめちゃんがもっと泣く。かごめちゃんを悲しませるなら、あたしは怒るよ。大体あんたはいっつもかごめちゃんを泣かせすぎなんだ。これ以上泣かすなんて許さない。」
「……いや、なんでそこでかごめが…」
「…そ〜だよあんたってやつは毎度毎度桔梗が出てくるたんびにあっちにふらふらこっちにふらふら少しはびしっと男らしくどっちか決めりゃ良いのにいつまでたってもどっちつかずでさぁかごめちゃんがどんだけ泣いてるかも知らないでこの唐変木っ!」
最初はぼそぼそ言っていたのに言葉が進むに従いどんどん早口になって最後にはすっかり怒鳴り声へと化していた。犬夜叉がどぎまぎと少しずつ後ずさりするのに対し、珊瑚はどんどん前へ前へと詰め寄っていく。
「大体ねぇっ、寝てたんだか封印されてたかなんだか知んないけど五十年も放ったらかしだった恋愛いつまで引きずってんだか未練ありすぎなんだよそんだけ時間あったんなら夢ん中でもどこででも考えられただろうにさっ、今頃うじうじうじうじ考えくさってあーも〜っ見てるこっちが苛つくったら無いってーの今まで一体何度崖から突き落としてやろうと思ったかっ!!」
息もつかずにこれだけ言い切った珊瑚は、肩を上下させ激しく呼吸を繰り返す。言いたいことはだいぶ言えたらしいが、犬夜叉はもはや言うべき言葉を失っていた。
かなり時間が経って、ようやく珊瑚が声を発した。やはりぼそ、と、独り言のように。
「…なんで犬夜叉がここに居んだよ。」
「はぁ?」
「ここにあんたがいることからして既におかしい。」
「いや、おい、あの、」
「出てけ。」
「へ?」
「…とっとと……」
そこですうっと息を吸い、立ち上がって、部屋の戸を開け放つ。
「出てってかごめちゃんとこ行って謝ってこいっつってんだーッ!!」
渾身の力を込めて、蹴り上げた。
頭から落下した犬夜叉の、どしゃ、という情けない効果音と共に、ぴしゃんという鋭い音が響いて戸は閉まった。
「…いい加減、機嫌を直されたらどうですか?かごめさま。」
「……嫌ーよっ!もう、このまんま、寝るっ。」
弥勒の声に、気疲れしたのか眠ってしまった七宝の背中をぽんぽんと叩いてあげていたかごめは途端に声を尖らせた。弥勒は、はぁ、とため息をつく。
「…そう言いながら、さっきからちっとも寝ようとしないじゃないですか。」
「それは……っていうか、弥勒さまこそなんで寝ないのよ。」
「いえ、私はこのまま寝るつもりですので。」
そう言う弥勒は、いつも荒れた家に泊まるときにするのと同じく、壁にもたれてのんびりと腕を組んでいた。それを見て少し慌てながら、
「このまま、って…いーじゃない、お布団あるんだからこれに寝ればっ」
「一組しかないでしょう。仮にも春宿です、この他にはもう無いでしょうな。」
「い、良いよ、弥勒さまが寝れば!あたしもたまには床で寝るからっ……」
「無理しなさんな。大体、年頃の娘がこんな硬い板間に寝ては美容に悪い。」
かごめさまの肌にはこんなことで損なうには勿体無いだけの艶がありますよ、などとしれっと言ってのける法師の顔はふざけていたが、その言葉は暗に犬夜叉のところへ戻りたいくせに・と言っていて、なんとなく、従うのは癪に障った。
「……良いのっ、ちょっとくらい…どーせあたしなんか、それで減るほどの色気も何も無いもん!」
きっぱりと言い切ったかごめに、弥勒は今度はきょとんと目を丸くした。
「そうですか?」
「え?」
ぎし、と床を軋ませ、手をついて、弥勒が身を乗り出す。ぎょっとする間もなく、湯冷めした手首を掴まれた。
「充分、魅力的だと思いますがね。」
「弥勒さ、いや、あの、」
「腕も足もすらっと細いし。髪だって黒く艶やか、肌は白くて唇は紅色。」
「…あの……?」
「そこらの連中がもし今の私の状況になったら、迷うことなく口説くか襲うかしてるんじゃないですかね。」
にやっと笑って、
「犬夜叉は嫌なんでしょう?」
「…へ……」
「じゃあ、今ここで私が襲っても宜しいと。」
「はぁ!?いや、ちょっ…」
やっと驚き身じろぎするも、掴まれた腕は解放されず、ぐっと相手の顔が近づく。
「……っ、やだっっ!!」
思わず叫ぶと、
「わわっ、ちょっと!そんな本気で叫ばないで下さいって…犬夜叉にこんなとこ見つかったら私の方がどうなるか」
かなり慌てた素振りで口を塞がれた。
ぱちぱち瞬きしていると、弥勒はにっこり優しく微笑って、
「…嫌、なんでしょう?犬夜叉じゃぁなくて、犬夜叉以外の全部の人間が、ね。」
「………。」
「だったら、」
口を塞いでいた右手を離し、そのままかごめのあたまをぽん、ぽん、と優しく叩く。
「戻りなさい。大丈夫、どうせあいつはかごめさま無しでは寝ることも出来ない筋金入りの馬鹿なんです。行けばきっと受け入れてくれますよ。」
「…弥勒さま……」
かごめもやっと笑って、
「…ありがとう。」
「そういえば、弥勒さま。」
「はい?」
「ほんとにあたしのこと襲う気、あったの?」
すると、
「まさか。」
あっさりと、なんの躊躇いも無い返事。
「さっき言ったとおり、そんなことしたら殺されますからね、冗談抜きで。それに何より……」
悪戯っぽい笑みが広がる。
「ホントに襲いたいのは、かごめさまじゃありませんよ。」
「……あ、そ。」
このままあたしは去ってしまっていいのだろうか。
かごめは心の底から友の身を案じた。
「…何やってんですか、犬夜叉。」
いささか、いやかなり怪訝そうに、弥勒が問うた。勿論、中庭の土に顔を半分まで埋めて目を回している犬夜叉に向かって、で、ある。
「……かごめに謝って来いっつって、追い出された。もとい、蹴り飛ばされた。」
「それはそれは…平手でも効くのに、蹴りは辛いでしょう、蹴りは。」
「……うるっせぇよ…」
なんとか起き上がり、ふるふると首を振って土を落とす。そのさまを半ば愉快そうに眺めながら、
「なんでそんな急に追い出されたんですか?」
しかしその問いに犬夜叉は、
「……わかんねえ。」
としか言えなかった。
襲ったらどうすると言ったらキレられたなどと言えば、むしろこっちの命が危ない。
実は相手も似たようなことをしていたとは露知らず、犬夜叉は吸い殺されはしないかと犬耳をぴくぴくさせながら立ち上がった。
「どこへ?」
「…どこだって良いだろ。」
「そうですか。あ、かごめさまの部屋はあっちの棟の一番端ですよ。どうせ七宝のいびきが聞こえてすぐ分かると思いますがね。」
「…っあのなぁ弥勒っ、俺は……」
「分かってますって。散歩ですね。隣の棟までの逢瀬散歩、あぁ楽し」
「……殺す」
「いやははは、まぁ参考までにってことですよ。犬夜叉、珊瑚の部屋は?」
「…なんかする気じゃねぇだろな。」
「する気であろうがあるまいが、私だって屋根の下で休みたいですよ。」
「なんだその曖昧な返事……」
「いいじゃないですか、とっとと部屋だけ教えろってんだよ早くしねぇか」
「…そこの笹模様の障子。」
「はい、さようなら。」
かなりあっさりと別れを告げ、邪魔だとばかりにひらひら手を振る。その仕草を半ば恨めしそうに睨みながらも、結局犬夜叉は歩き出した。ほんの少しだけ、急きながら。
それを見届けると弥勒は柔らかく笑んで、そして言われた障子に向かって言った。
「珊瑚、私です。成功しましたよ。」
少しして、障子は開いた。
「おう、かごめ。…いるか?」
言われたとおりの一番端の部屋、実際聞き慣れた寝息が微かに漏れ聞こえた。少しして、いるわよ・と返事が来た。入るぞと小さく声をかけ、障子を開ける。
先程までいた珊瑚の部屋と同じくそこにはたった一組だけ布団が敷かれ、そしてその上で寝ているとばかり思っていたかごめは壁際にもたれて膝を抱えており、布団では七宝と雲母が寝顔をさらしていた。いい気なもんだとため息をする。
「…弥勒さまに、なんか、お説教されちゃったわ。」
苦笑いしながら、お説教って言ってもただ諭されたみたいな感じだけどね・と付け加える。
「犬夜叉は、どうしたの?」
「…いや……俺も、珊瑚に説教喰わされて。」
ついでに蹴られて追い出されたと言ったらどう反応するだろうなどとぼんやり考えていると、
「そっかぁ……ねぇ、犬夜叉。」
突然呼ばれ、びくっと震える。
「あ!?あ、いや…えと、なんだ?」
「こっち来て。」
ちょいちょいと手招きされるまま、一応おとなしく近寄る。せっかくかごめがこんなに穏やかなのだ、第一今かごめの怒りを再度買えば今度こそ自分は野宿決定である。
「座って。」
何がしたいのかといぶかしりながらも、いつもの犬座りになる。よほど不審気な顔になっていたらしい、かごめはまた笑って、そんな固くなんなくて良いわよ、と言った。
「…あのね、ちょっと目、つぶっててくれる?」
「はぁ!?…なんで。」
「良いから良いから。大した事じゃないの、すぐ終わるし。」
「……おう……。」
結局言われたとおり目をぎゅっと閉じた。あっという間に、それまでとは比にならない暗闇が周りを覆う。
かごめの声が聞こえた。
「あのね、あたし、そりゃ、色気なんて無いわよ。」
まだ言うのか。と、半ばうんざりした(元凶の癖に)気分に犬夜叉がなっていると、
「大体、そんなの要らないもの。確かにあった方が良いかなくらいには思ってるし、女の子だもん、興味ないって言ったら嘘になる。だから怒ったんだし…でも、」
何も見えないと妙に音だけが浮ついて聞こえる。かごめの静かな声・七宝のいびきじみた寝息、どこかの部屋から漏れているだろう聞いたことも無い男女の声。
「…ごめんね、本当は分かってたよ。犬夜叉なら、そんなの気にしないでいてくれるって。それぐらい、いくらあたしだって分かるわ。だけど…だけどやっぱり、不安だから。」
ざ、と布を擦る音が聞こえた。かごめの気配が近くなって、かごめが少しこちらに寄ってきたのだと判る。
「不安だから…なんとなく、時々くらいは、苛立っちゃうのよ。あたし、普通の人間だし。これが普通って分かってても、ちょっと複雑になるけど……でも。」
そこで、間が空いた。それまでの言葉の継ぎ目よりずいぶん長く、馬鹿正直に目をつぶったままの犬夜叉はいつもの癖で思わず鼻をひくつかせた。
かごめの匂いが思いのほか近く、思わず後ろに退こうとしたがその瞬間、額に何かが触れてぴし・と固まった。ぱちっと目を開ける。
にっこりと笑んでいるかごめの顔が、間近にあった。
「でもあたし、傍にいるわよ。傍にいて、いつでも笑ってあげる。あんたが本気で拒絶しない限り、何があったって傍であんたも笑わせてやるんだから。良い?何があったって・よ。この世の果てまで・なんてセンス無いことは言わないけど、でもそれくらいの気持ちはあるの。」
さっき浅く口付けたばかりの額をぺしっと軽くはたいて、そして腕を首にまわす。そんな彼女は、酷く嬉しそうで、幸せそうだった。犬夜叉のほうはすっかり頬を火照らせて固まってしまっていたが――…。
『分かった?あたし、傍にいるわよ。やっぱり、犬夜叉以外の人なんて誰も認められないから、あんただけが好きだから、あんたがあたし以外にも好きなものがあったって、あたしはあんたが好きだから…だから傍にいるわ。良い?絶対に、忘れないでね――…』
「ずいぶん手荒い“説得”したらしいですな。」
「五月蝿い。あいつが悪いんだ」
未だ不機嫌そうに言いつつ、整備したばかりの退治道具たちをてきぱきと元の包みに戻していく。
「ねぇ、いつまでそんなことやってんですか。」
「五月蝿いっての。今終わって、片付けてるだろ!」
半ば怒鳴りながらやっと最後の防毒面を包みに戻すと、手早く結んだ。部屋の隅、飛来骨の隣に置く。ふうっと息をつくと、
「そろそろ寝ます?」
言われて、
「…そだね。明日も歩くんだし、もう大分冷えてきたし…眠れなくなったら、まずい。」
そしたら相手がにやっと笑んで、なんとなく嫌な予感がした。
当たってたりして。
「さぁって、それじゃ布団は一組ですし」
「いーよあたしそこの隅で寝るから丁度よく小袖が布団代わりになるしっ!」
明らかに危険なことを言いかけた法師に二の句を継がせまいと早口で並べ立てたものの、彼の笑みは崩れることなく、
「まぁまぁ、そんなんじゃ冷えるでしょー。一緒に寝れば温かさも倍ですよ。」
「良いよあたしは温かさなんか規定値でも二分の一でも無事に夜が終わってくれれば」
「そうつれないこと言わないで下さいよ。たまの二人だけの夜ですよ、ちょっと楽しく過ごしません?」
「嫌!!」
即答して仁王立ちしたまま固まってしまった珊瑚に、またため息をついてから、
「しょうがありませんね…それじゃ私が部屋の隅で寝ますからお前布団で寝なさい。」
「へ!?いや、なんで…良いよ、法師さま疲れてるだろ!?」
「何言ってんですか、ずっと一緒に行動してたんですから、運動量は同じですよ。ならば女のお前の方が疲労は溜まっているというもので」
「でも……」
「ほら。」
躊躇ううちにも法師は立ち上がってしまい、とうとう珊瑚の所まで来てしまった。まるで促すかのようにぽん、と肩を叩かれ、それでも隅へと向かう法師を思案顔で振り返る。
合った目線は、いつもの悪戯っぽい笑みを含んでいた。
「なんちゃって。」
ふざけた一言と共に、ぱし、と足を払われ、わっと小さく叫ぶ。同時に法師の腕が背中に回ってきて床に頭部激突はまぬがれたものの、ちょうど良く相手に押し倒される格好となった。結い紐の外してあった黒い長髪がぱっと床に広がる。
「いやー、お前は素直で騙しやす…いやいや、騙しがいがありますなー。」
「言い直してもあんまり失礼さが変わってないっっ!!」
してやったりという表情の弥勒と、してやられたという表情の珊瑚。そのまんまの表現だが事実そのまんまだ。ただし珊瑚の方は顔を真っ赤にしていたが。
「ど、どいてって!何考えてんだよあんたはっ…」
「多分珊瑚が想像してる通りのこと。」
「何を想像しろってんだ、何をっ…っ!」
そこでむぐ・と口を塞がれてそれでもなお何か言おうとすると、
「珊瑚、こういう所はね、不思議と音が筒抜けになるんです。あんまり叫ぶと隣に聞こえますよ?」
「え゛……」
言われて黙ってみると、そういえば知らない女の声のようなものが聞こえる気がした。うめき声…と、言うには少し艶っぽすぎる、聞き馴染みの無い嫌な声。
「…珊瑚、顔がますます赤く…」
「う、五月蝿いっ!なんでそんな平然としてられるんだ、あんたはっっ!!」
「音くらいで照れるお前もお前だと思いますが。」
「黙れ黙れ黙れっ、そして放せーっ!!!」
「嫌です。」
肩を押し返す珊瑚の力になど動じもせず、床についていた手を上げて彼女の頬に添える。一瞬びくつかれることなんて悠々予想の範囲、構わずそのまま髪を掻きあげた。
「…ね、このまま襲っちゃっても良いですか?」
半分ふざけて問うと、
「良いわけ無いだろ馬鹿じゃないのっ!?」
と、やはり当たり前のことだが返ってきて、思わずはははと笑った。
「だろうと思いましたよ。それじゃ、今は…」
もう押し返すことを諦め床に投げ出された珊瑚の手を片方掴み、髪に絡めた右手はそのまま、頭を下ろす。
「……これだけで、許しといてあげましょう。」
いつもより少し露わになった首筋に、唇を落とした。
「っきゃ……」
普段聞いたことの無い、甲高い声が頭上から聞こえた。珍しいもん聞いたな・などと呑気に考えながらほんの少し肌を舐める。こちらが少し動くたびに珊瑚はいちいち反応して面白いことこの上ない。
やっと首筋から離れて珊瑚を見てみると、すっかり紅色に染まりきった顔で目を潤ませていた。これくらいでやめとくかと思っていたのに、再び悪戯心が頭をもたげる。
「……あと一回だけ、遊んでおきますかね。」
にっと笑い、掴んでいた珊瑚の手に指を絡ませて、今度は正統に唇へ(珊瑚が聞けば何が正統だと怒鳴りそうだが)口付けた。
あまり長くは無かったものの、浅くも無かったそれは珊瑚の意識を飛ばすには既に充分だったらしい。もう一度顔を見てみたときには目を閉じてしまっていた。
「…面白い、が……弱い。」
少々呆れたようにためいきをついたものの、すぐに愉快そうな笑みを浮かべて、法師は珊瑚を布団に移動させるべくその身体を抱え上げた。
「昨日はよく寝たのう!なぁ、雲母」
言われて、当の猫又は賛同したが、周りの人々は酷く恨めしげにその様子を見やった。いや、弥勒だけは通常通りだったが。
「なんじゃ、みんな。そんな恐い顔して…なんかおら悪いこと言うたのか??」
「…いや、あのね七宝ちゃん…ううん、そういうことじゃ……」
「七宝てめえ、布団占領しやがって…」
頭に怒りマークを付けながら俺は良いけどかごめが寝れなかっただろうがとかぶちぶち言う犬夜叉をとりあえず無視し、やはり恨めしそうにしながらも黙ったままの珊瑚に問いの矛先を移す。
「珊瑚は?そうじゃ、昨日結局かごめのところで寝てしまって、護衛に行ってやれんかった。大丈夫だったか?」
ごくごく純粋に心配そうにそう訊いたのに、
「……全ぜ………いや。別に、何も、無かった、けどっ。」
本当は何かあったなんてもんじゃなかったと叫びたい気分だったが、そんなことを言えばまず間違いなく何があったか詳しく訊かれまくると思って何もいうコトは出来なかった。代わりに当の法師をぎろっと睨む。しかしいつも通り、当たり障りのない笑顔でのらりくらりとかわされた。
そんな友の様子を見て、
「……やっぱあたし、あそこで弥勒さまを柱にでもくくりつけとくべきだったのかしら…。」
「いやそんなことが必要になるってことからして、多分おかしいことだと俺は思うぞ。」
昨晩、結局二人して壁にもたれ眠ったらしきかごめと犬夜叉のやりとりは、昨晩の荒れようの所為か酷くのんびりと聞こえた。
--------------------End.
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「取捨選択」より復活しました作品であります。最初は…なんだっけな、犬+珊、弥+かごめのコンビに分けてそれぞれ喧嘩の仲介・みたいなのを書きたくて。でも結局飽きて途中で投げてたのを同企画に上げてみたら、なんかえらい人気で; 結構必死で続き書いて…それでもお待たせしてしまったので、そのお詫びに思いっきり甘くしてやろー・と思ったらこんなんなりました;;
今読み返してみて思うことはというと…。……この頃の自分、「甘い」の意味をなんか穿き違えてますね(笑) 首攻めればなんでもエロいと思ったら大間違いだよお前(自分だよ)
今は正統に口付けの方が好きです(腐ったから)
何はともあれ(汗)、投票ありがとうございました!またなんとか復活させたいなあ…;;