「あら、おかえりなさい、弥勒さま。」
今思えば、その時の彼女の声は、どこか弾んでいたかもしれない。
『おやすみなさい。』
「良かった、もう犬夜叉と楓婆ちゃんの村に帰ろうと思ってたのよ。出来ればちゃんと伝えたかったから…もう宿はとってあるからね。そこの宿屋さん」
「はい。何かご用でも?」
「うん、ちょっと。ついでに犬夜叉借りてくからね。…弥勒さま、法事とかっていうの、もう全部片付いたの?」
「だからここにいるんですよ」
「それもそうだわね」
くすっと笑ってから、
「じゃあ、行ってくるわ。もう珊瑚ちゃん寝てると思うけど。」
「はあ。…え、あの、七宝とかは?」
「サツキちゃんちに遊びに行ったわよ。聞いてない?」
聞いてない。
心の中で即答しつつ、笑みを浮かべ、
「…じゃ、私も休みます。部屋はどこですか?」
「二階の、一番奥よ。すぐ分かるわ。」
「分かりました。……では」
「うん、おやすみなさい。犬夜叉―!」
そうして元気良く、少し離れた木陰にいる犬夜叉の元へ駆けていくかごめの後ろ姿を少しの間見つめた後で、弥勒はのんびりと宿屋へ向かった。
特に下心などがあったわけではない。ちゃんと言葉で気持ちを伝えてからはどうも安定してしまって、今更どうこうする気はほとんど起こらなかった。
それより今はちゃんと寝たい。明日も多分旅は進むのだし、今はここのところあまりしていなかった読経をしたことで疲れている。
ぼけーっとそんなようなことを考えながら階段を上り、突き当たりにあった一番奥に位置する部屋の障子を開ける。一応宿屋の主人に確かめたから間違いはない、躊躇無く開けた。が、しかし。
「……へ」
間の抜けた声が出る。
当然である。
そこには、珊瑚が寝ていたのだから。
「………」
無言で一旦ぴしゃりと障子を閉め、停止しかけている思考回路を無理に稼働させる。
どういうことだ。いつもこういう所に泊まる場合には男女で部屋を分けるか仕切りを置いて雑魚寝か・のはず。しかし今この部屋ではそのわずかな空間のど真ん中に堂々と布団を敷き、その上で珊瑚が寝息を立てている。掛け布団で顔こそ見えないものの、きちんと寝ていることは気配で分かった・いやどうせならいつものように浅く眠ってくれていれば良かったのに…じゃなくて、そうだ、宿の主人はなんと言ったか。犬夜叉たちの特徴を伝えるとすぐに分かった様子で、この部屋の位置を教えてくれた……それだけだ。隣の部屋がどうとか言ったことは何も無い。つまり取った部屋は一部屋…ってだからそれがそんな馬鹿な・と。
混乱しきった思考を一気に流し、それから息をついてもう一度、今度はゆっくりと慎重に障子を開けてみる。やはり珊瑚が寝ていた。
目を凝らして見てみると、どうやらその頭の左側、ちょうど人一人入れるぐらいのスペースには、珊瑚のものではないもう一つの枕が置かれているようだった。それは全くもってきっちりと定位置に収まっており、逆に後からワザと置いたもの・というような雰囲気を醸し出していた。多分珊瑚の寝付いた後に置いたのだろう。
――…図りやがったな、あの連中。
軽く舌打ちし、部屋に入る。静かに障子を閉めると、部屋はいっそう薄暗くなった。静寂が耳に痛い。微かに聞こえる珊瑚の寝息も、今ばかりはちっとも気を休ませてくれない。
「しょうがないな…」
部屋の隅にでも腰掛けて、いつも通り寝るか。多少の労力はこの際仕方あるまい。
そう諦めると、弥勒は息を殺して部屋の端に向かって歩き出した。が、その時。
「…あれ」
小さな声に、びくっと身を震わせる。恐る恐る振り返ってみると、珊瑚が身を起こしてこちらを見つめていた。寝起きのせいなのか、目がとろんとしている。
「法師さま、帰ったんだぁ…」
「は、はぁ…起こしちゃいましたか」
苦笑い。どうやら息を殺したのが裏目に出たらしい。かえって不審な気配が出てしまったのだろう。
「おつかれさまぁー…あれ、なんでそんな隅っこにいんの?」
何故か口調までとろんとしている。良く分からなかったが、まあどうでもいいので放っておくことにした。
「いや、寝ようと思いまして…見たところ押入れもないし。布団、他に無いでしょ?いつも通り壁で寝ますよ…っ。」
後半声が詰まったのは、珊瑚が弥勒の袈裟をぐいと掴んだからである。どこか熱っぽい声が言う。
「別に良いんじゃないの、布団で寝れば」
「はぁ?」
「風邪引いちゃうよ、法師さま」
「いや…だって、」
「うるっさいな…とっとと寝りゃいいだろ」
「うわ!」
不意に不機嫌な声になったかと思うと、商売柄ハンパじゃない力が弥勒を引き倒す。珊瑚の真横に転んだような形になったのだが、その時、ふっと一瞬弥勒は“その”匂いを嗅いだ。
「…どしたの?」
「珊瑚、お前…」
半分苛ついた声音で、
「…酔っ払ってんな?」
すると、至極のんびりなお返事。
「んー別にぃ。かごめちゃんが…」
「やっぱりか」
「今日の退治仕事でもらったお酒ぇ、たまには珊瑚ちゃんで飲んじゃいなさいよーって」
「はあ。…そら確かにいつも私が頂いてますけど…ってそうじゃなくて珊瑚っ、お前そんなに飲んだのか?」
「えー飲んでないよそんなには…覚えてないけど」
「…覚えてないほど飲んだのかそれとも相当弱かったのか……」
頭を抱える。そばで珊瑚はきょとんとしていた。それからふっと突然笑みを浮かべて、
「別に良いでしょ〜お酒なんてまたいくらでももらえるよぉ」
「いや別に飲めなかったからすねてるってわけじゃないんで…」
「寝たらすぐ忘れるよ」
「は?」
何故か急に方向転換した話に戸惑いの声を上げた瞬間、再び凄まじい力でぐいっと引っ張られた。いつの間にか自分まで布団の中に入っている。さっきまで珊瑚の寝ていた温もりがうっすらと伝わった。
「や、ちょ、あのっ…」
「あったかい〜……」
にこにこしながら弥勒の胴に回した腕の力を強める。頬は酔いで火照ったままだった。
「……珊、瑚…あの」
何を言えば良いのかこのまま『何か』しても良いのか、色んな思考が巡って言葉が途切れる。酔っ払っているとは言え、普段滅多なことではこっちに触れもしない珊瑚の今の状態は心臓に悪い。冷や汗をこめかみに感じつつ、恐る恐るといった風に手を伸ばした。今は自分の胸元にある、彼女の肩に。
が、しかし、
「…珊瑚?」
相手が動かなくなった。腕の力こそ抜けていないものの、微かに規則正しい呼吸音すら聞こえる。
これはまさかもしかしていやもしかしなくともお決まりの展開から言って、
「…寝ましたか……。」
なんとなくがっかりしたようなほっとしたような複雑な感情を抱きつつ、そっと珊瑚を離そうと試みる。しかしその力は思いのほか強くて、弥勒はすぐに諦めた。
「…まぁ、たまには良いですよね」
軽く溜息をついて、掛け布団を引き上げる。それから抱きついたままの珊瑚の背中に腕を回して、きゅっと抱きしめた。
「……うん。ま、確かにあったかいです。」
珊瑚が起きていて聞いているかのように独り言を言うと、少し腕を動かしてそれからまた抱きしめる。いつもと同じ珊瑚の髪の香りもそれからあまり馴染みの無い酒の香りも、今はなんとも言えず甘くて優しい気がした。
目が覚めたら珊瑚はどんな反応をするだろう。うっすらでも覚えているのだろうか、それとも綺麗さっぱり忘れているのだろうか。
どちらでも良い、構わない。
とりあえず、今が幸せ。
「ねぇ、珊瑚?」
一人くすくすと笑っている弥勒は多分今誰かが傍から見れば相当怪しかったが、とりあえず幸せそうだったので『良いこと』なのだろう。どちらみちそんな『誰か』はここには存在しなかった。
「――…おやすみなさい」
囁くように、言う。
この世に存在する言葉の中でも、特に優しくて温かい、奇跡の言葉。
それを大切に言える今の自分は、多分、少なくとも、不幸などでは無いだろう。
遠のく意識の中で、ぼんやりと思っていた。
「かごめさま、私になんか期待してました?」
「べっつにー…」
「表情があからさまに憮然としてますよ」
「だぁーって。せっかくあそこまでお膳立てしてあげたのにぃ。」
「帰ってみたら珊瑚の奴、頭痛いしか言わんのだからのう。」
七宝までもがかごめの肩でがっかりした顔でため息をついている。そうかお前も共犯か・と弥勒がさり気なく拳を固めていると、いささか萎えた珊瑚の声が部屋に入ってきた。
「あ〜…頭痛い……」
「ここの水、冷たくて良いでしょう?」
「ん…ちょっと冷たすぎかも」
短い会話を交わし、すとんと弥勒の隣に座る。
「ねぇねぇ珊瑚ちゃんっ、昨日の夜、変わったこととか無かった!?」
半分意地になったような声でかごめが訊いてみる。背後では犬夜叉がどうでもよさ気にのんびりと欠伸をしていた。
「…へ……変わったこと、って…例えば?」
「た、例えばって…っとぉ……」
「弥勒が布団の中に入ってきたりせんかったのか?」
「はぁ、布団に……って、はぁ!?」
「ちょ、ちょっと七宝ちゃん!」
あまりに単刀直入な七宝の言葉に珊瑚がぎょっとしてかごめがわたわたと少し慌てる。弥勒はその横で涼しい顔をして眺めていた。犬夜叉はごろりと寝返りを打った。
「…べ、別に……酔いのせいでちょっと起きるの遅くなったけど…でも、起きたら普通に法師さま、札かなんか書いてたし…」
おろおろと逡巡する珊瑚に、かごめがかなりがっかりしたように顔をしかめて、なーんだと言った。背後で弥勒が少しくすっと笑う。
「あ〜あ。せっかく一人にさせてお酒まで一升も飲まして、弥勒さまになんかさせるために色々やったのになぁ」
「まさか一升まで潰れんとは思わんかったから、焦ったのう」
「え!かごめちゃん、七宝、そんなことしてたの!?」
どこまでも鈍い珊瑚である。
「さ〜今日も頑張って行きましょー。」
心底愉快そうな弥勒を尻目に、もう一人の男手(七宝は除く)は再び欠伸を一つ、それからくうくう寝息を立て始めた。
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イメージはaikoの「おやすみなさい」の「じゃあね おやすみ」ってとこだけ(しか覚えてない)、それとミスフルサイトで好きだったサイトさんの詩の一節。言われてみると「おやすみ」ってきれいな言葉だなーと思って…書き始めたら、えらいほのぼのになりました(笑)結構好きです。珊瑚の扱いがただの抱きぐるみですが(ぇ
背景画像は、配布サイトさんでタイトルが「おやすみのつき」だったので、これしかない!と勢いで設定しました。やっぱり好きですv