肩を叩けばさっと身を翻して距離をとり、声をかければ一瞬震えやっぱり距離をとってから振り向く。
そうしてその後、彼女は必ず言うのだ、「何さ。」と。
とてもとても、不機嫌そうに。嫌そうに。面倒そうに、ぶっきらぼうに。
そんな彼女は、そんなに好きではなかった。
だけ、れ、ど?
『ロージー』
「あれ。」
ついさっきまできゃらきゃら笑い合っていた町娘を適当にまいて歩くこと数分、まだ宿までは少しかかるかといった所の距離の、質素な木製の橋の上。
ほんの少し前に連れ歩くようになったばかりの後姿が、そこにあった。
「黄昏て、まぁ…」
誰にともなく呟くと、少し迷った末にその傍に歩み寄った。
彼の性格上、人の暗い事情などに首を突っ込むのは苦手だった。
暗いことなんぞ自分のだけで充分だ、何を好き好んでわざわざ人の不幸まで背負い込むことがあるか。
それが、彼の正直な所の気持ちだった。
けれどなんとなく、放っておくのはまずい気がした。気になる、というより、後々面倒になりそう、というような。通り過ぎようとして気付かれればもっと嫌だし、しかも彼女も事情が事情だ、まさか飛び込みはしないだろうけどそれに似た雰囲気は確かに漂っていて不安だった。
――しょうがない。
心の中で言うと、こちらに気付くようにその肩へ手を伸ばした。
「何してるんですか。」
声と共に、ぽん、と肩を叩く。
途端に彼女はばっと素早くその場を離れてしまい、弥勒との距離が広がった。目が合った瞬間、浮かんでいた警戒の色が薄れる。
「…なんだ。法師さまか。」
「誰だと思ったんです」
呆れたように言い、もう一度、何をしていたのかと問う。大体見当はつくのだが。
「…別に。ぼーっと、川、見てただけ」
やっぱり。
そんなふうに思ったが、それを顔には出さず、
「そうですか。」
それだけ言った。他に言うべき言葉が浮かばなかったからだ。
何を言おうかと迷っていると、珊瑚の双眸がすうっと細められた。あからさまな不信感。
「…何さ。なんか用でもあんの?」
その言葉に含まれた棘は相当に鋭く、さすがに弥勒もそれ以上構う気は失せた。
「……いいえ。ちょっと気になったものでね。宿には、あまり遅くならないように。」
「ああ。…分かってる」
手短な返事を聞くと、弥勒はさっさと歩き始めた。
暗い女は嫌いなんだ。
自分のことでも手一杯なんでね。
そこまで他人に構えるほどの余裕は、生憎持ち合わせてない。
しかし、立ち去りかけた弥勒の耳に飛び込んできたのは、どこぞの女の甲高い悲鳴だった。
「誰か!誰かっ……うちの子を助けて!!」
通行人たちの視線につられ、見やった先に見えたのはさっきの橋の下を流れていた川。そしてその上流に、黒っぽい小さな影を認めた。土手の上を必死に走りながら叫ぶ女は母親だろう。
「…おいおい…ここ、流れも結構速ぇぞ」
少しだけ焦りを声に出しながら、たっと駆ける。あんなか細い女ではまず間違いなく救えない。通行人たちはあくまで見物を決め込んでいるし、これでは子供が死んでしまう。
「しょーがねぇな…」
心の中で舌打ちをしながら川へ飛び込もうとした時、また大声が上がった。今度は通行人の声だ。
「女だ!女が橋から飛び込んだぞ!!」
…嫌な予感。
こめかみの冷や汗を感じながら、そう思った。
当たっていた。
ぱしゃぱしゃと派手な水しぶきを上げながら流れに逆らって泳ぐその後姿は、紛れもなく珊瑚のものだ。子供はなんとか石にでも引っ掛かったらしく、流れの真ん中ほどで止まっている。気を失って、泣きもしない。そこへ珊瑚はゆっくりとだが着実に近づいていっていた。
「あんの馬鹿っ、まだ傷も塞がり切って無いってのに……」
水神退治の時も後で傷が開いただのなんだのと大変だったのに、こんな流れの急な川をそれに逆らって泳ぐなんて無謀に等しい。
好きなタイプの女では無かったはずだが、このままでは命に関わる。
…冗談じゃない
心中吐き捨て、なるべく近い岸から飛び込もうと、弥勒は駆け出した。
――…冷たい。
心の中で呟く。
勢いそのまま飛び込んだものの、やはり、もう秋口の川の水は冷たく身を刺した。流れもかなり速い。
こんな川、街中にあるのが間違ってる…!
などと愚痴ってみてもしょうがない。今はとにかく子供を助けることだ。きゅっと目をつぶり、意識を集中させる。
もう、誰かが死ぬのは嫌だ。
誰かが、目の前で死ぬのは、絶対に。
……嫌だ。
「…着いたっ!」
小さく叫び、ぐったりとした子供の身体を片手に抱える。思っていた通り大きな流木が沈んでおり、それに子供は引っ掛かっていた。その木を片手で掴んで流されないようにしてから、抱えた子供をゆさぶる。
「大丈夫!?返事してっ…」
水を飲んでいるようだった。ちっ・と舌打ちするものの、まだ大丈夫そうだと安堵する。
後はもう一度、今度は岸に泳ぎ着けばいい。
そうして身を翻し、泳ぎだそうとした瞬間、背中を激痛が走った。
「っ……!」
声にならない呻き声をあげ、思わず背中に手を当てようとする。途端に体が流れの方向に大きく流されかけ、慌てて水を掻いた。ほんの少しだけ流れに逆らうことに成功する。
泳ぐの、無理だ。
一瞬の内にそう結論付けると、珊瑚は渾身の力を振り絞って子供を岸へと投げた。
「お、おい、流されたぞ!」
「あの滲んでんの、あれ、血じゃねえか!?」
「あっ、子供投げた!!」
そんな通行人たちの声にますます焦りを募らせながら、人垣を掻き分ける。開けた視界に少女の姿は無くて、代わりに岸辺で水を吐き息を吹き返した我が子を抱く女の姿だけがあった。
「……っ、だから言ったんだっ!!」
実際に少女に向けて言ったわけではないのに、けれどそんなこと気にしてる場合ではなく、弥勒は何も考えず飛び込んだ。
冷たい水は入ってみると透明で、案外周りを見通せる。
――居た!
見れば、橋を支える柱に引っ掛かっている。大した強運の持ち主だ、などと感心しながら、流れに任せてそのまま真っ直ぐ進んだ。さすがに流れのおかげでかなり早く着く。
――完全に、傷、開いてるし。
呆れと言うより苛つきと怒りに近い感情を覚えながら、その身体を脇に抱える。
と、珊瑚の瞼が薄く開いた。すぐにぱっと開ききり、きょとんとしてこちらを見つめる。大丈夫、と言うつもりでにっと微笑んだ。心の中では、よくまぁ水の中で気が付くなぁとか感心していたが。
そして一度呼吸しに水面へ上がろうかと思ったその時、柱に当てていた足が、ずるっと、ズレた。
―――げ!
ごぼ・と泡を吐いて声にならない声で叫びつつ、とりあえず泳ぎ始める。呆気に取られていたら本当に溺れてしまう。
その時、きゅ・と袈裟を握られる感触が伝わった。
見てみれば、どこか心配そうな、というより何か言いたそうな珊瑚の顔。
…なんだ?
そんなふうに思っているうちに少し泳ぐ手が止まったらしい、ぐっと体が流れに引き込まれる。そしてはっと顔を前に引き戻すと、目の前に迫っていたのは、大岩。
地上でなら大声で叫んでいただろうが、ここは水中。弥勒はとりあえず頭と珊瑚をかばうしかなかった。
流れのままにぶつかった衝撃は重く大きく、彼の意識は薄れた。
落ちた地点からはかなり離れた下流の岸に、ずぶ濡れの二人の姿があった。
少女の背中は血が滲んで布地を染め、岩にぶつけた法師の肩口の袈裟は少し破れてほつれていた。
目を開けているのは少女であり、閉じているのは法師だった。
――誰かの声が、聞こえる。
誰だろうか。
聞き馴染みがあるといえば嘘になる、けれど知っている誰かの声。
誰だろう?
「――…法師さまっっ!!!」
ぱっと目を開ける。自分を覗き込む少女の顔が、そこにあった。必死と言うに相応しい表情。今すぐにでも、大声で怒鳴りだしそうな。
「……はい。」
自分でも間の抜けた返事だと苦々しく思いながら、それでも一応返す。ぶつかって、そのまま気を失って流されたらしい。情けない。
「…お前が、岸まで辿ったんですか?」
「違う。法師さまだ。」
「おや。……それはそれは」
無意識の内にちゃんと岸に泳ぎ着いたのだ。それなら少しは誉めても良いか、などと呑気に考える。
自分は、よっぽど生きたかったんだな。
それなら、それはそれで良い。生きる意志があるのなら、自分はまだ生きていける。
「あ〜、痛て……」
言いながら身体を起こし、怪我は無いかと珊瑚に訊こうとしたその時、合った珊瑚の視線が呆れでも怒りでもましてや警戒でもないのに気付いて口をつぐんだ。
やっぱりぎっと睨むようにしていた珊瑚が、やっぱり睨んだままに、
「馬鹿っ!!」
突然、力いっぱい、怒鳴った。
「…へ?」
さっきの返事よりよっぽど間抜けた声を出しつつ、きょとんと目を見張っていると、なおも珊瑚は怒鳴る。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っっ!!何考えてんのさあんたはぁっ!!」
「な、何が…」
「なんで法師さままで飛び込んで来んの!?あたし一人でだってちゃんと子供は助かったじゃないかっ!」
「…って、でもお前、そんな傷で…実際、沈みかけてたじゃ」
「ちゃんとあとで気が付いてただろ!?法師さまが飛び込む必要なんて全っっっ然、無かったっ!!」
凄まじい形相と剣幕でまくし立てる彼女の言葉に、少々弥勒はむっとする。それではまるで、自分が用無しだったみたいではないか。
「…そーですねぇ、お前ならそりゃ一人でだって出来たのかもしれませんよ、しかしね…」
そこまで言って、はたと止める。そのまま、困惑して、ただ目の前の少女を凝視した。
「…こんな、怪我までして……、…ほんとに、何やってんのさ…。」
弥勒のほつれた肩口にそっと手を添え、絞り出すように言う彼女の目は、いつの間にか潤んでいた。そう言う彼女の方こそ背中の傷が開いているはずで、それなら弥勒よりよっぽど重傷のはずなのに、そんなことは微塵も感じさせない。普段ならそのことの方が多分弥勒は気になっただろうけど、今は何故かずぶ濡れになって肌に張り付いた髪の毛や着物の布地の方が気になった。
そして、それでも手を出せないような何かが漂って、弥勒は結局珊瑚の身体を気遣うことも町娘にするようにその肌へ手を伸ばすことも出来ずにいた。
「…すいません。」
そうして出た言葉は、酷く単純で。
「…すいません……でも、私は、大丈夫ですから…だから、珊瑚。」
やっと伸ばした手は、ただ肩に置くだけだった。
「……泣かなくたって、良いですよ。」
知らないうちに、顔は微笑った。
誰の為ともつかない笑顔などではなく、ましてや世渡りのための愛想笑いでもなくて、それは、ただ真っ直ぐ珊瑚のために浮かべられた微笑だった。
それから数日経っても、弥勒の怪我も珊瑚の傷もすっかり治った頃になっても、やっぱり珊瑚の反応は変わらなかった。肩を叩けばさっと身を翻して距離をとり、声をかければ一瞬震えやっぱり距離をとってから振り向く。
そうしてその後、彼女は必ず言うのだ、「何さ。」と。
とてもとても、不機嫌そうに。嫌そうに。面倒そうに、ぶっきらぼうに。
いや、ほんの少し、ほんの少しだけその棘が柔らかくなった気もしたけど、とにかく。
そんな彼女は、そんなに好きではなかった。
けれど、だけれど、放っておきたくなくなった。
彼女の涙も笑顔も全部失くした人たちへのものでしかなく、それはどこぞの見知らぬ幸せな家族の笑顔をいくら羨んだところで決して手に入れられないのと似たようなもので仮に欲したとしても彼女が差し出してくれることは有り得ない、そう思っていた。
だけど突然、彼女は、なんの前触れも無く差し出してきたものだから。
そして差し出されたそれはそれまで思っていたよりずっとずっと優しくて温かくて。
求められるのなら求めてみたい。けれどそれはもしかしたら我がままかも知れなくて、ただ真っ直ぐ手を出すのは躊躇われた。
それでも。
それでも、どんなに少しずつだってそれに近づけたなら、俺は……
…君に。
-----------------End.
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セットです。セット作品です。ほんとは三部作。でも二個しか出来てない(おーい)
一応「弥勒と珊瑚がお互いを意識した瞬間」を一生懸命足りない頭で考えてみたんですが…どうだかなあ(ぇ) ほら、原作ではアレじゃないですか、いつの間にか珊瑚が(バックに炎出るほど)激しくやきもち焼いてて、そいで「もういっそ弥勒も好きってことで良いじゃない!」と(私のような)弥珊ファンが騒いでたらなんかあれよあれよという間に弥勒もどんどん思わせぶりなこと言うよーになってとうとう婚約ですよ。考えてみると怒涛の展開(ぇ
ということで、好きになった瞬間というのがとても気になるわけです。恋愛というものを考えるなら、これは欠かしちゃいかん要素だろうと。…思って〜…このお話ともう一つ「遥か」を書いたわけなんですけども〜…… 見つけた素敵なカットに合わせてせっかくだから三部作にしようと思って、んで一部で弥勒、二部で珊瑚の話にして、あと三部でまとめっつーことで両思いの話書こう・と決めて…でもそれがなかなか難しいんですよ(泣) つーか両想いなら山ほど書いてるから!うちバカップルばっかですから!(ぇ