『しあわせ束ねて いつか』
月が、ほんの少し山から顔を出していた。まだ辺りは薄明るくて、灯りがなくとも物が見える。
薪でも拾っていたのだろうか、誰か男が一人森から出てきた。出た先は、木々がなく原っぱのようになった少しの空間。そこから真っ直ぐ坂を下れば村はすぐなのだ。
と、彼の目が、その空き地の真ん中に生えた木にとまった。いや、正確にはその根元に座り込んだ一人の娘に、だ。
「お前さん、そんなとこで何をしとるんだね。」
もう冬も近いもの、すぐに冷え込むよ。そう心遣う男に娘は微笑って答えた。
「大丈夫、慣れてるから。」
おかしなことを言う娘だ。そう思いながらもあえて強要はせずに、ただ訊ねた。
「どうしてもそこにいなきゃいけないのかね。村はすぐそこだろうに。」
すると娘はやはり微笑って、そして空を見上げて言った。
「人を待ってるんだ。」
そう言った彼女の顔はとても穏やかで、男はやはりただ「そうか」と言い、そして気をつけてとだけ言い残して立ち去った。
娘は、やはり動かず、ただ座っていた。
同じ頃、村で一組の男女が軽い喧騒を繰り広げていた。
「何よっ、たまに遊びに来てあげればぐちばっかり!いつもこっちに来てもらってばかりだから悪いと思って、わざわざ来たのよ!?」
「うるっせえな、文句あんのか!?こっちはお前が一人でこっちにくるのは危ねえって言ってやってるだけだろーが!」
そこへ、存外のんきなツッコミの声。
「かごめ、お主は結構こちらにも来ておるし、犬夜叉なんぞどうせかごめの匂いがした瞬間から飛び出して迎えに行っとるんじゃ。どちらもなんだか的外れじゃぞ。」
「……。」
「…あたし、そんなに来てるっけ。」
「うむ。月に十回くらい。」
しばし沈黙が流れ、ツッコミを入れた子狐と黙っていた老巫女が同時にため息をついた。
「…それにしても、もう一年になるか。」
「え?」
何が一年なの楓婆ちゃん、と聞き返した少女に、巫女は少し目を伏せて言った。
「あの二人が、消えてから。」
ああ、と犬夜叉も声をあげる。
「そういやな。霜月の、望月の晩だった。」
「そうじゃのう、なんにも言わずに勝手に二人してどこかへ行ってしまいおった。二人一緒なのか別々なのかさえも分からんし……今頃どうしとるかのう…。」
「生きておれば良いがな。」
「やだ、縁起でもないこと言わないでよ、楓婆ちゃん。」
かごめはすっと立ち上がり、戸口から空の月を見やった。
「珊瑚ちゃんは多分琥珀くんを捜すため。弥勒さまは風穴を完全に消すため。どちらも辛い旅だろうけど…でも、あの二人だもの。」
ふっと笑んだ。
「絶対、元気でやってるわ。」
さあ夕ご飯にしましょ、と明るく言ったその時、他の三人の目が大きく見開かれたことに気付いてかごめは思わず声を上げる。
「どうしたの?みんなして…」
「…うしろ。」
「え?」
犬夜叉が指差した先を追うようにして振り向く。
そこには、いつか見た幼い顔そのままで、少し気弱げにうつむいた少年が立っていた。肩には赤い目をした猫又が乗っている。
「……あ……。」
呆然と言葉を失ったその場の面々に戸惑いを露わにしながら、少年はおどおどと言葉を紡ぎ始めた。
「…あの、俺、姉上に言われてここに……あ、すいません、俺は、俺の名前は…」
「分かってる。」
ほんの少し目を潤ませて、かごめは静かに少年を抱きしめた。
「分かってるわよ。」
頭に浮かぶ気丈な友人を想いながら、きゅっと腕に力を込めた。
「おかえり、琥珀くん。」
月がすっかり真上まで昇って、まぶしいほどに輝いていた。今宵は満月、月が最も輝く時。
娘は、ちらっと頭をよぎった弟のことを少しの間だけ考えた。今頃は懐かしい人たち――老巫女や可愛い子狐や生意気な半妖、それに運がよければあの優しい少女もいるかもしれない――に囲まれて、質問攻めにあっていることだろう。そう思うと笑いが込み上げてきたが、すぐに待ち人のことが思い浮かんではたとやめる。
丁度一年前の今晩。自分は一人で旅立つつもりで、こっそりと仲間たちの眠る小屋を抜け出した。しかし外に出ると、奇しくももう一人、ちょうどその晩旅立ちを決めた者がいたのである。
「…どうしたんですか、珊瑚。こんな夜遅くに。」
「それはこっちの台詞だよ、法師さま。どうしたの?こんな夜遅くに、さ。」
はは、と軽く笑い、彼は言った。
「……多分、おまえと同じ理由だと思います。」
「そう。」
目を伏せる。
「…法師さまも、行くの。」
今しがた自分の出てきた小屋をふっと見、そして言った。
「寂しがるだろうね、みんな。」
いい人たちだから。そう言う彼女自身、寂しそうに見えたのは果たして法師の気のせいだろうか。
「そうですね。本当に、馬鹿がつくほどいい人ばかりでした。」
この人はさりげなく口が悪い。ずいぶん前から知っていたはずのことだが、改めて実感した今のこの感覚はなぜか妙な感じだった。
ゆっくりと歩き出す。別れるつもりだったはずなのに、こうして逢ってしまってみるととても名残惜しくて、一歩一歩が遅くなる。
「戻る気は、ある?」
「今はありませんな。もしここで戻ったら、多分……もう、行く気になれない。」
そうだね、あたしもそうだよ。淡々と返した珊瑚の表情は、喜怒哀楽で言えば、哀。
ちらっと彼の右手を見た。反対側にあるそれは一瞬しか見えなかったが、未だに紫の手甲がはめられたまま。
そこに刻まれた呪いの刻印は、小さくはなったけれども完全に姿を消すことがなかったのである。
次に頭に浮かんだのは、行方知れずの弟のこと。
もう天生牙で真の魂を取り戻した。かけらも取り出してある。
だけど、何処に行ったのかが分からない。
蘇り、襲ってきているであろう記憶に負けていませんように。そう祈りながら、珊瑚は決めた。捜してあげよう。そしてまた二人で、一緒に。
…約束は、そのあとで。
気が付くと、森の手前まで来てしまっていた。そこは少しひらけた場所で、真ん中にぽつんと木が一本。真上には目がくらみそうなほどに見事な望月。
「……ここらで、お別れだね。」
「はい。」
どちらにいく?じゃあ私は西で。分かったそれじゃああたしは東だね。
「……最後に、一つだけ。」
普段となんら変わらない、見慣れた笑みを浮かべて、彼は言った。
「何?」
「約束、しましょう。」
「え?」
「一年後の同じ月の、こうして望月が昇る晩までに、もしもそれぞれ目的が成し遂げられたなら…この木の下で、また逢いましょう。」
満月なら分かりやすくていいでしょう。そう言う法師に、珊瑚は訊ねる。
「もし、遂げられていなかったら?」
「……お前はともかくとして…私は、分からない。」
だから、と続ける。
「私が来なかったなら、その時は……忘れて、下さい。」
すっと珊瑚の眼光が鋭くなる。大体予想はしていたが。
「…それ、通ると思ってんの。」
「……いいえ。」
“約束”したのに。
怒りの情を宿した彼女の瞳が、そう言っていた。
彼女は、どんなに遅れたとしても、“約束”は守るつもりだ。
でもね、と心の中で告げた。
――俺だって、そのつもりなんだよ。
「大丈夫です。」
微笑む彼を怪訝に見つめる。法師はさも楽しそうな表情で、しかし瞳に強い決意の光を秘めて、言った。
「だって、私は成し遂げるつもりなんですから。」
自信満々でそう言い放つ彼の言葉はいつもと変わらずなぜか人を納得させる力があって、珊瑚はふっと笑った。
「…そだね。諦めるつもりで旅立つやつなんて、いないもんね。」
「そうそう。」
ははは、と少しの間笑いあった。温かくて優しい時間。
「それじゃ。……“またね”、法師さま。」
「ええ。“また逢いましょう”、珊瑚。」
何気ない挨拶は、そのまま約束になっていた。
あれから時は簡単に過ぎてしまって、気が付いたら約束の日。
あたしは成し遂げた。だから、こうして待つの。
いつの間にか月がだいぶ傾いている。もう夜明けまで大して無いかも知れない。
それでも、彼女は待つ。きっと約束は果たしてくれる、そんな確信めいた信頼が胸のどこかにあったから。
膝を抱えて目を閉じて、ただ何も目に入らないようにして待ち続ける。月の光もずいぶん薄くなり、空の藍が少しずつ白んで蒼に近くなっていた。それでも、彼女は待っていた。
かさり。微かに草を踏むような音がした。彼女はぴくりとも動かない。
かさり。もう一度、同じような音がした。やはり、彼女は動かない。
かさり、かさり、かさり。少し間隔を早めて音が続く。彼女は、動かなかった。
かさり、かさり、ぱきん。最後に木の枝を踏み折る音を響かせて、音は止まった。彼女の、すぐ前で。
珊瑚は、顔を上げた。
そこには、懐かしい人が立っていた。
「……遅いよ。」
「すみません。」
ふてくされたように言う彼女に苦笑しながら、法師は言った。
「久々にこの辺に寄ってみたら、案外色んな人に呼び止められましてね。思っていたよりも時間がかかってしまいました。」
はははと笑いながら両手をひらひらと振るようにして上げる。その片方に見覚えのある手甲が未だ付けられているのを見て、思わず珊瑚は小さく驚きの声を上げた。すると、かの法師は笑いながら、
「飾りですよ。ただの。」
ぴらっと布をめくって、何もない“ただの”手の平を見せた。たいらで、何もない、普通の手のひら。
「……なぁんだ。」
安堵のため息を漏らす珊瑚の目線に合わせるように、弥勒もしゃがむ。
「言ったでしょう。成し遂げられなかったら、もう忘れてください、と。そして、必ず成し遂げます、ともね。」
「そりゃそうだけどさ…」
さて、と仕切り直すように話を始める。
「琥珀は?珊瑚。」
「先に楓さまのところにやった。犬夜叉たちもいるし…運が良ければ、きっとかごめちゃんだっているだろう。」
「なるほど。それじゃあ、」
にやっと笑って、外気で少し冷えた彼女の手を握る。山犬退治の後で初めて握った、あのときと同じように。やっぱり彼女の頬は赤く染まって、やっぱり自分にはそれがとてもいとおしかった。
「すこしぐらい約束の“先取り”をする時間は、ありますね?」
さきどり?と、目を丸くして聞いてくる珊瑚にまた笑って、くっと引き寄せた。
「はい。先取り、です。」
一年ぶりに、しかし一年前よりずっと近くに感じた彼女は温かかった。草と風とそれからなにか温かい物が混じった、懐かしい匂いがする。
「……すこし、だよ。かごめちゃんたちが、」
「心配するかも知れませんからね。分かってます。」
「…っていうか、だからさきどりって何さ。」
「こうしてるだけでいいですよ。」
きゅうっと抱きしめて、首筋に口付けて。彼女がほんの少しびくっと震えたけど、それでも構わずに。
「こうしてるだけで、俺は幸せだから。」
小さな約束。
大切な約束。
果たしたなら、そのあとは?
しあわせ束ねて、おおきなおおきな何かをつくりましょう。
失ったものも傷ついたものも、ぜんぶぜんぶ包んでしまって。
そうしてまたつくってゆくの。約束どおり、ふたりでね。
月の下、止めていた二人の時間が、また、動き出した。
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Rian,thank you!