夏・1、「報せ」

















 「ひっ。」
「わっ…。」

 白衣を着た人々が揃って一瞬びくりと怯える。そんな彼らを一瞬睨みつけるが、すぐに横を歩く義理の弟から「駄目だよ」とたしなめられて一応目を逸らした。どすどすと歩く。
 「まだかよ。ったく、いつ来ても薬臭ぇ……」
「もうほとんど犬っぽくないのに?」
「五月蝿ぇよ。臭うもんは臭うんだ」
 ぶっきらぼうに言って、ふてくされたようにそっぽを向いてしまった。いつまでたっても子供っぽさの消えない義兄に、ふっとため息をつく。そこでようやく目当ての病室が目に入り、ほっとしながら、
「兄ちゃん、あそこ」
 と指差した。ぴくりと、人間の耳が一瞬震える。
「犬耳じゃないと気持ち悪いね、その動き…」
「んだとコラ」
「ねえちゃーん。連れて来たよ、兄ちゃん」
 かっと拳が握られたのを見、慌てて扉に手をかける。呼びかけると、いつもと同じ明るい声が返ってきた。
 「ありがと、草太―。」
病室に入る。少しクリーム色に色づいた明るいその部屋のベッドの上で、彼女は微笑っていた。白い浴衣。
 脇に、小さな篭のようなものが置いてある。
「かごめ!大丈夫か!?」
「もう苦しいとこなんてとっくに過ぎたわよ」
 あんた肝心な時に居ないんだから、と少し口を尖らすと、今にも『おすわり』しそうにしゅんとなった。
「すまねえ」
 呟いた彼に、馬鹿じゃないの別に良いわよと苦笑混じりに言ってあげる。
 「それより、ほら。早く抱いてあげてよ」
 また微笑い、篭から小さな淡い桃色の布包みをそっと抱き上げた。小さな小さな、…柔らかい。
「目が開いてもし瞳の色素薄かったりしたら格好良いわね」
「やめとけ」
 少し渋い顔を作って、それでも手渡されたそれを彼にしては優しく抱いた。うわ・という、呻きとも呟きともとれない小さな声が漏れる。
 布の中の小さな顔は、ただじっと瞼をおろし口を薄く開いて眠りについていた。しわくちゃで、だけど、愛おしい。何度も何度も、たくさんの別れと痛みを味わった末に昔知った、その大切さ。ただ生きているという事実それだけでも泣きそうに愛しくなるのだ、だから。
 ああ、愛おしい。
 けどまだそれをそのまま口に出せるほど自分は素直になりきれていないので、顔の表層だけでもいつも通り仏頂面に取り繕った。呟く。
「…猿みてぇ」
「失礼ね。あんたの子でしょ」
 少しむっとし、けれどそれからまた笑顔を作る。遠い日を見る目になった。
「…報せて、あげたいな」
「あ?」
 誰に・と本気で分からない顔で訊いてきた犬夜叉に、当前そうに、
「弥勒さまたちによ。」
 言った。

 窓辺の写真立てを見る。ずいぶん昔に撮った写真の中で、懐かしい人たちが変わらずに笑っていた。






















 久々に来たそこはやっぱり相変わらず草が茂り、森がざわざわと揺れていた。遠くで、生活の火の煙が上っている。
(楓ばばあは、良いや。面倒臭ぇ。)
 適当にそう結論付けると、確かあの二人が暮らすと決めた場所の方向に向かって、昔よりは劣るがそれでも人間のそれより遥かに強い脚力で犬夜叉は駆けていった。
 まだ少し、遠い。





























 森の中にぽつんと空き地があった。それは野原と言うべきなのか、薬草や可愛らしい小さな花などの茂る、小さな土地である。木々が根付くことをうっかり忘れたかのように、本当にさりげなくぽつりと残された日の当たる場所。
 「綾音、おいで」
「はぁい」
 少し低い声が呼び、可愛い高い声が明るく答えた。軽い足音が草を踏みしめる。それは五歳くらいの少女と、墨衣に袈裟姿の男だった。
 「採れたか?」
「はい。ほら、こんなにたくさん」
「おや、凄いな」
 じゃあ帰ろう。
 はいっ。
 両腕いっぱいに薬草なんかを抱えていた小さな少女はとても楽しそうに笑って、それを見た彼も楽しそうに微笑んだ。そっと草を半分ほど持ってやり、空いた彼女の手と自分の手を繋ぐ。
 そうしてゆっくり歩き出した時、不意に森がざわついた。普通の人間なら鳥でも飛び立ったのだろうと気にも留めない程度だったが、男はふっと振り向く。ぼんやりしたような目つきでじっとその方向を見つめた。
 「どうしたの、父上?」
 突然足を止められて、少女が不思議そうに訊ねる。それから幾ばくもしない内に、ざっと木が揺れ、真紅の衣がふわりと野原に降り立った。
 黒い長髪が風になびく。
 「おう、弥勒。今暇か?」
 やはり昔と変わらない、怒っていないのに怒っているような仏頂面で訊いてきた彼をじっと少し見つめた後、弥勒は少しだけ口端を上げて笑った。少女に向けた笑顔とは少し違う、どこか人を馬鹿にしているようで挑発的な笑み。
「これは、また…珍しいお客ですな」
 一方少女は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに嬉しそうに笑顔を顔いっぱいに浮かべた。
「あー、犬のおじちゃんっ!」
「誰がおじちゃんでぃ、誰がッ!!」
 すぐ怒るのも少しも変わってねぇな、と弥勒はぼそっと呟いた。
 もちろん当の本人は気付いていない。


















 「久しいな。前に来て…『職に就く』とか言ってもうこっちへは来ないと宣言してから……あー、二年?」
「まぁそれくらいだな」
「仕事はどうした」
「依頼が落ち着いたんだよ」
「“依頼”?」
「言ってなかったか」
 少し驚いたように目を丸くする。
「妖怪退治と除霊。かごめの時代も、良く見てみたらそんなに平和じゃなかった」
「へぇ…居るのか。」
「ああ、居る。ていうか、たまたま遭って一回倒したら妙な評判が立ってよ、わざわざ来る奴がいっぱい出てきたんだ。せっかくだからそのまま仕事にした」
「まあお前がかごめさまの時代で普通の仕事に就くなんて無理だろうな」
 くすくす微笑う。ふてくされたように少しそっぽを向いた犬夜叉の数メートル前を、少女が楽しそうに跳ねながら歩いている。蝶の羽ばたきのように軽やかに、しかしゆったりと穏やかな帰路だ。
 「そういえば、なんで来た?暇のたびにこっちに来るほど、気の回る奴じゃないだろ」
「うるッせぇ。…かごめに、報せに行けって言われた」
「かごめさま?報せ?」
 何かあったのか。そうのんびり訊かれ、たっぷり数十秒どもる。怪訝に思って、そっぽを向いていた犬夜叉の顔をひょいと覗いてみると、その頬が思いっきり赤く染まっていた。
 面白いことのようだ。
 すぐさまそう判断して、ほら早く言えよとせっつく。するとようやく、ぼそりと犬夜叉が呟いた。
「…ガキが出来た」
「はぁ?」
 だいぶ長い沈黙が降りた。歩調が緩み、少女が少し遠ざかる。
「……ガキ…って、…ああ!お前とかごめさまのか!」
「そ〜だよ!文句あっかコラ!!」
「なんで怒る」
 耳まで真っ赤になった犬夜叉を最初は面白そうに眺めて、それから柔らかいだけで他意の無い笑顔になった。
「良かったな」
「……別に」
「嘘付け、顔がにやけてんぞ」
昔と変わらず意地を張った顔で吐き捨てた犬夜叉を、また面白そうににやつきながらからかいの言葉を投げかける。案の定相手は乗ってきた。
「何ぃ!?てめえデタラメ言ってんじゃッ…」
「ああ。嘘だ」
「……」
 頭に怒りマークを貼り付けて黙り込んだ犬夜叉をまた哂って、それから前を歩く少女を眺めながら、
「まあ、のんびり構えてろ。その内、『目に入れても痛くない』なんて表現の当てはまるもんがほんとにこの世にあるもんなんだなと思えてくるよ」
「嬉しくもなんともねぇよそんなん」
「だろうな。けど、そうなる」
 面白そうに言う弥勒を面白く無さそうに見つめた後で、ふと思いついたように言った。そう、そういえば、気付かなかったのが不思議だったが。




「おい弥勒。珊瑚どうした?」





 言ったと同時に、弥勒の目が少し丸くなった。ああ、と呟きそうに、けれど何も言わずどこか遠い目になって、……返事は、ない。
 「匂いもしねぇぞ……いくら嗅覚が前よりゃ劣ってるにしてもよ、…また退治仕事にでも行ってんのか?ホントに落ち着かねぇのな…」
 それでも返事が無くて、さすがに怪訝に思ってもう一度名を呼んでみる。今度は返事があった。それまでよりいっそう低い声、でも穏やかな。

 「そうだな」


独り言のように。


「お前にも言わなきゃならなかったな」


手の中の草と花を分けていく。薬草と、可愛い花とに。



「珊瑚は死んだよ」


 少しだけ、本当に少しだけ眉根を寄せて、薄く微笑う。日に照らされた笑顔は何処までも柔らかく暖かく影は無かった。





 「死んだんです」











ぽかんとして足まで止めてしまった犬夜叉に、もう一度、ゆっくりと噛み締めるようにして言った。









                             ----------------→「夏・2」