夏・2、「語り」























 「…どういうことだよ」
「そのままだ」
「そうじゃなくて!」
 若干声を荒げた後で、ぼそっと消えるような声で呟く。

 『どうして』。
















 「……。ああ…」
道の向こうを見つめる。小さく、自分の住む家が見える。


 そこには、今でも。







 「…どこから話そう?」















 今でも、あのひとが笑って手を振っていそうな気がするんだ。










































 外で何処かの家の子供たちが場違いのようにきゃははと笑いながら駆け回っているのが聞こえる。
 そんな中で、低く、あまり抑揚をつけずに、つらつらと経文が静寂の中へと響いて消えていく。


 軽く瞑目しながらただひたすらに弥勒はもう何度詠唱したか分からない漢字の群れを流していた。頭の中は空っぽ。何か重いものがずしりと居座り、思考すらもじっと止めているような気がした。

 もう、蝉の声は絶えかけて、遠く微かに聞こえるだけ。





 唯説弥陀本願海五濁悪時群生海応信如来如実言能発一念喜愛心――……










 経の半ばで、とたとたとたと軽い足音が早足で部屋に近づいてきていた。部屋の前まで来る。

 ぱん、と、高い音を立てて障子が開けられた。



「旦那っ!珊瑚姐さんがっ――…」




 聞いた瞬間、弥勒はきゅっと刹那だけ目を閉じた。


 ゆっくり、開く。



























 「旦那ってば!早く行かないとっ…」
「ハチ」
低く静かに名を呼ぶ。その声があまりに静かで、ハチはびくっと一瞬震えた。
「仏前だ。静かにしろ」
「…え!?でも…!」
「経が終わるまでだ。黙って待ってなさい」
「……」
 久しく聞く、何ものにも動じない弥勒の声。ハチは、何を言っても、今、この人が動くことはないと知った。
 きゅっと唇を(有るか無いかは別として)きつく結び、ぼすっとその場に座り込む。










 少し間を置いて、失礼致しましたと一言、場の者に断ってから再び経が始まった。低く柔らかく、あくまで滑らかに流れていく――…。





 自分に言い聞かせるように、歌のように。






































 珊瑚が派手に血を吐いて倒れたのはまだ夏に入ったばかりの頃。梅雨の合間の久々に晴れたある日に、それは突然起きたこと。









 「肺だな」
多少なりとも手当ての心得があった弥勒だから、少し診てすぐに分かった。かごめに多少現代の医療というものを教わっていたこともある。まあ家庭の医学程度ではあったが。
 「吐血量から見ても、まあどちらかの肺は駄目になってる」
「……そっか」
「そっか・じゃない」
とりあえずと寝かせた彼女を、たしなめるように少し睨む。
「なんでこんなになるまで黙ってた」
言ってから、少し後悔。彼女が黙ってたせいじゃない。自分が気付かなかったせいだ。
「…最初は、風邪かなんかかなと思ってたんだ。時々咳が出るくらいだったし…この頃になってちょっと胸が痛いくらいで」
「いやその時点でだいぶ危ないと思いませんかそれ」
「だから、も少ししたら話そうと思ってたんだけど」
「“も少ししたら”が余計だっ」
「……ごめん」
少し、黙る。二人ともが黙ったから、部屋はしんと静まり返る。

 外で綾音のはしゃぐ声が聞こえた。


 「…あたし……」
「ん?」
「あたし、あとどれくらいもつだろう。」
 はっと目を見張って珊瑚を見た。真っ直ぐにこちらを見つめる目と、視線がぶつかった。

 少しだけ唇を噛み、それからゆっくりと、大方の見積もりを告げる。





「……夏が、終わるまで。」











 少し時期外れな蝉の声が、遥かに響いていた。


































 もう動かず、ひたすら目を閉じて静かに胸を上下させるだけの珊瑚の隣で、綾音はじっと座っていた。風の音が聴こえる。戸がきしむ。それでも、誰も何も動かない。
 名を呼んで返事をもらうのも諦めて、きゅっと膝元の着物を握り締めながら彼女は沈黙と哀しさと寂しさとに耐えていた。

 その時、不意に珊瑚の唇がぴくっと震えた。はっとして見つめると、睫毛がふるふる震えてそれから瞼がゆっくりと上がる。薄く、口を開く。
 「…母上?」
恐る恐る言ってみると、珊瑚は数度、口をぱくぱくさせて、それから微かに声を絞り出した。
「…た……。」
「え?」
 聞こえなくて、訊き返す。すると、また呟きが漏れた。消えそうに、けれど今度は言葉の最後まで。





「やっぱり、来た。」





 そしてその顔に、ふっと微笑が浮かんだ。























 「……?母う…」
意味を掴めずに言いかけたその時、ざわっと風が急に騒いだ。
 しゅっ・と障子戸が開く。吹き込む少し冷えた風、そして、
「ほら、来た」
「…珊瑚……。」
 くすくす笑い出しそうに呟いた珊瑚を見つめながら、弥勒はぽつりと名を呼んだ。





















 「ねえ、こんなになってもまだ法師さまの気配が分かったよ」
「そうか。…勘が鋭いのは相変わらずなんだな」
「うん。…仕事、途中で投げ出して来たりしてないだろうね」
「してませんよ。お前と約束したとおりね」
「よし。……ありがとうね」
「お前の仕事にかける誇りは知ってるつもりですから」
「…うん」
 そっと戸を閉め、再び薄暗く閉ざされた部屋の中をゆっくりと珊瑚の傍に歩み寄る。珊瑚は、さっきまでが嘘のように、弥勒まではっきり聞こえる声で話していた。まだ頬は青白いままだったが。
 「大丈夫か?」
「ん……なんかね、頭がぼーっとしてる」
「……そうか」
 綾音の隣に膝をつき、じっと珊瑚を見下ろした。泣きそうに微笑いそうに細められた瞳が、灯りを反射してきらきら光っている。
「ね、法師さま」
心なしか細かく震える手を伸ばし、
「手…握って」
「手?」
 一瞬きょとんとして、それから右手を伸べた。遠い昔は数珠に巻かれていたその腕で、上げられた珊瑚の手を握る。ぬるかった。


 「……あたし、法師さまに何かしてあげられただろうか」
「ええ。とても、とてもたくさん、…珊瑚のお蔭で、たくさん。」

「あたし、いっぱい心配かけたね」
「いいえ。むしろ、私が泣かせてばかりで…そう、泣かせてばかり、で。……すまない」

「ねえ、琥珀に、里の手入れを頼んでね」
「分かりました。きっと。」

「七宝に、いい歳して泣いちゃ駄目だよって」
「はい、伝えます。」

「楓さまに、お世話になりましたって」
「はい、言います。」

「ハチにもね」
「…要りますかね」

「要るよ。……そう、それから、」


ふっと懐かしそうに目が宙を彷徨う。


「かごめちゃんと犬夜叉に。…ありがとう・と、ごめんね・と、仲良くね・と。そいで…」

きゅっと手に力を込めた。

「あなたと綾音にも。……ありがとう」



 そこで息を吐き出した。相変わらず、顔は微笑ったまま。



「ありがとう。あたし、こんなに幸せ」



手が震えるくらい、強く強く握り締めて。



「出逢えて良かった…そんなんばっかりで、どれがどう・とも言えないけど。嬉しかったんだ。幸せだったんだ。たくさん、たくさん泣いたけど、でも幸せの方が多かったんだ。」


 また、ありがとう・と言って、それから。


「でも、ごめんね。…けど、どうか、泣かないで。」




 あたしの為だけに泣いてもらえるなんて、都合が良すぎるだろうか・と彼女は笑み混じりに呟いたが、そんなことはない・と強く答えた。そう、そんなことは無いんだ。

「多分、泣かない人の方が、少ないよ」

 きょとんと目を見張る。


 「…そっか」
顔いっぱいに笑った。

「ありがとう」

三回目、言って、




「大好き。」





言ってから、ふっと目を閉じた。細く、長く、ふ――っと息を吐く。





 動かなくなった。


































 涙は出ない。
 ただ、握り締めた彼女の手を、少し重みの増したその白い手を、ぎゅうっとまた強く握った。




 「…母上!」

少し間を置いて上がった綾音の声は、妙に闇に響いて聞こえた。



































 「姉上は、幸せでしたか」

 独自に開業した退治仕事の合間にやっと都合をつけて来たらしい義弟は、姉の顔を見て手を合わせた後にふっとそう呟いた。


 「…さあ」
俺は珊瑚じゃないから・と言い置いて、
「でも…少なくとも、俺には。」

浮かぶ顔はいつも笑顔。最後だって、そう。

「俺には、幸せだといつも言ってくれた」






 少しの間、義兄の顔を見つめた後、彼は微笑って言った。
「…そっか。」
弾みで・なのか、ぽろっと一しずく、目から零れて。
 「なら、きっと幸せだったんでしょう」





 その笑顔がどこか彼女に似ている気がして、やっぱり姉弟だなと彼も微笑う。




























 「なんでじゃ弥勒!」

報せを聞いて駆けつけたかつての仲間は、弥勒の顔を見て開口一番にそう叫んだ。


 「……はぁ?」
「なんでじゃ!」
「いや何が」
「なんで言ってくれんかったんじゃ!!」
目を丸くしてしばし固まる。それから、ああ・と呟いた。
「…珊瑚がやめろと言ったんだよ」
「なんでじゃい!」
 少なくとも弥勒たちの肩に乗れないくらいには成長した今でも、あまり変わっていないその中身に、淡く苦笑を漏らす。
「珊瑚らしいと思いませんか?」
「へ?」
「嫌だったんですよ、きっと」
くしゃっと頭を撫でてやる。
「死の間際まで、知ってるみんなが泣きそうな顔で会いに来たりするのがね。」

やっぱり、彼も笑う。


「最後に見る顔は、ぜんぶ笑顔であって欲しかったんだ。」





 そう、彼女なら、そう思ったんだろうと思うんだ。






























 「…経は、私があげよう」
「お願い致します」
「法師殿でもさすがに出来んか」
「いえ……あ、いや、まあ。そうですね…はい。」
「…法師殿……」

少し気遣わしげに、楓は少し顔を上げて弥勒を見つめる。


「大丈夫か?」






 少し間を置いて、ただ、大丈夫ですよ・と微笑って呟いた。






































 煙が上がっていく。太くなったり細くなったり、ゆらゆら揺れながら高く高く上がって、それから空の青の中に消えていく。ぱちぱちと微かに火の爆ぜる音がした。
 薫るのは森の土の匂いと風の運ぶ甘い花の香だけであった。彼女の燃える炎をぼんやりと見つめながら、膝辺りにしがみついて離れない綾音の頭をゆっくり撫でてやっていた。























 季節は夏の終り。虫が鳴き始めて蝉はいつの間にか消えて、風だけはほんの少し身に沁みるような冷たさを帯びる、そんな頃。
 日差しばかりが強く眩しく射してきて、肌をじりじり焦がした。





 そんな頃、彼らの家から、大事な大事な一人が消えた。














































 「……ま、だいぶ端折りましたが、そういうことで。」
「…って、肺病で夏に倒れて初秋に死にましたってしか言ってねぇじゃねーか」
「そうでしたっけ?」
「そうだよっ!せめてもう二、三行足せやコラ!!」
 息巻く犬夜叉をとりあえずはははと笑った後、また、少し沈んだしかし影の無い目になって、言った。
「墓へは行くか?犬夜叉」
「……あ」
初めて思い当たったように、少し目を丸くして、
「…ああ。」
「そうか」

 なら、どうせもうすぐ見えるから・と弥勒はまた歩調を戻して歩き始めた。












 犬夜叉はついていく。











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