夏・3、「夢」



















 彼女の墓は、野原から家までの少し長い一本道の、真ん中辺りにぽつんとあった。木のトンネルのような道脇の、小さな陽だまりに、白い石が置いてあるだけだ。

 ただ、周りには供えられた花が溢れている。















 「…おめえ、良くそんな顔してられるよな」
「はぁ?」
しゃがんで手を合わせたあと、ぽつんと言った犬夜叉に、少し間の抜けた声を出す。時々こいつは妙に感傷的なことを言い出すから面白い。
 「いや…静かすぎてよ」
気味悪ぃや・と毒づいた犬夜叉を、はは・と軽く笑う。立ち上がった犬夜叉がそれまでしゃがんでいた場所に同じようにして膝を折って座り、、さっき綾音と摘んだ花をそっと墓前に供えた。
「笑い事じゃねぇや。…旅してる時から知ってると、……そんなに涼しい顔してられるのが信じられねぇ。あの頃のお前なら、もっと冷てえ顔してなんにも言わなくなってる気がする。少なくとも、まだ半年とちょっとくらいしか経ってねえ今なら」
「なら、今の私はだいぶましということですかね?」
「…まぁな」
でも・と言いかけて、犬夜叉はふっつりと黙ってしまった。また、山から聞こえる植物と動物の立てる音だけが場を満たす。綾音はもう家に着いてしまったかもしれない。
 さわさわさわ。木の葉の擦れる音。
 混じって、遠く微かに蝉の声が聞こえた。

 顔を上げる。

 「……一度だけ」
「あ?」
突然勝手に喋りだした弥勒を、怪訝な目で見やる。弥勒はそんな犬夜叉の様子にはちっとも気付かない様子で、というよりちっとも気にしない様子で、ぽつりぽつりと呟いた。


「引きずらないように、と、思って……実際、引きずっているつもりはないが……一度だけ。」




 木漏れ日は深く柔らかい緑色で、どこまでも澄んでいる。








「一度だけ、あいつの夢を見たことがある。」













































 弥勒は、縁側にごろんと横になっていた。蝉が五月蝿い。日が眩しくて、少しでもそれが目に入らないようにと少しだけ体をずらす。あまり意味が無かったから、腕で強引にそれを遮った。瞼越しに腕の重みが眼球へぎゅっとかかる。鈍く痛んだが、どうでも良かった。蝉の声に耳を澄ませる。


 じっとりと汗が額に滲むのを感じながら、そのまま、まどろみ始めた。




















 再び目を開けると、どうしてか頭の下の床がいやに柔らかかった。温かいし、日も、差していない。
 「……?」
 腕を下ろし、瞼を上げた。橙色に色づいた斜陽がまぶしく、暫し眩んで、それから微かにそれを遮る影を見る。見慣れた形に、かたどられて。
「起こしちゃった?」
くす、と微笑を漏らしそうに囁かれた声に、耳をくすぐられるような感覚が眩暈に似て頭を打った。思わず唇が微笑う。
「…珊瑚か」
「他に誰か居る?」
「居ないな」
互いに笑みを交わした。さわさわと森が鳴る。淡赤色と藍色とに染められた空がただ静かに暮れなずむ。

 彼女の髪が、揺れる。

 「疲れてるなら、もうちょっと寝てても良いよ」
綾音も寝てるから・と付け加えた珊瑚に、じゃあもう少し・と答えた。頭に感じる彼女の膝の温もりと、額に感じるその手のひんやりとした冷たさが、対照的だけれども酷く調和して心地よかった。また、目を閉じる。

 ふと思い立ち、閉じかけた目で彼女の顔を見た。けれどそれは逆光が邪魔してほとんど見えず、ただ微笑を形づくった唇だけが照らされていた。時々、ほんの一瞬だけ瞳が光を受けて煌めく。
 まるで夢の中のように彼女の顔の上半分はぼやけたままだった。目を凝らしても見えない。けれど身体を起こす気はしない。どこか、だるい。

 そう、夢のように。夢の中のように、そこには自分の意思では何も動かせそうにない決まりきったストーリーが在って自分も周りのもの全てもそれに従い動いているような、気が、したのだ。















 ――…夢?



























 はっと目を開けた。秋の風が頬を撫ぜ、白い光が斜めに弥勒を刺していた。
「………あぁ。」
息をつく。少し目線を下にずらすと、いつの間にやら綾音が腹の辺りにしがみつくようにして眠り込んでいた。閉じた目の縁が微かに濡れている。

 「…夢、か。」

今はもう夏も終わって秋の初め。今見た夢のように蝉の五月蝿かったあの梅雨明けの季節は、もう遠い。


 けれどまだ彼女は鮮やかなままだった。温もりも真っ直ぐで強い声も。全部、彼女のまま。


 「そういや、一回だけ、膝枕なんかしてくれたことあったな」

そういえば・の話で、ずっと忘れていたけれども、確かにあった。珊瑚が倒れる、ほんの一月ほど前のことだ。弥勒はまだ彼女が病にかかっているとすら気付いていなかった。多少顔色が悪かったりどこか違和感を感じたりはしていたが、そのたびに巧く誤魔化されていたように思う。なんとも情けない話。

 「あん時も、暑かったか…」
 一度思い出してみると、記憶の中の情景は酷く鮮明に蘇り始めた。少し湿ったぬるい風。蝉の声。縁側の床板の冷たさ。彼女の膝の感触とそのひんやりした手の平と、揺れる髪、甘い髪の香、微笑った唇とそれから、

「!」

 目を見開き、一瞬固まる。思わず息をしゅっと吸って、それからゆっくりゆっくり吐き出した。微かに呼吸が乱れた。あくまで静かに、けれど速くなるリズム。








 「……そうだ」
 思い出した。そうだあの時俺は確かに見たんだ。あの時彼女は、あの人は、あいつは……

「!っ」
その時、しばらくの間雲に遮られていた太陽が不意に現れた。強い光が目を刺し、思わず腕で顔を覆う。
 「……」
造った闇の中、もう一度あの時の彼女をそこに浮かべた。頭の下に感じた膝の温もりと柔らかさと額に感じた手の平の冷たさと湿っぽさと揺れる髪とその香りと微笑んだ唇と瞳にちらちら宿る灯りとそれから、










…ほのかに輝く光の筋を引いた、白い頬と潤んだ瞳。











唇を噛んで、けれど精一杯顔いっぱい浮かべた、心の底から嬉しい時のあの笑顔。
























 彼女なら、例え治らない病だと解っていてもそれで誰かの顔が曇るのを忌んで何も言わずに済ませただろう。

































 そうだ、彼女は泣いていたんだ。
 多分もう悟っていた遠くない別れと、そこに在った愛おしい全ての為に。





















































 「…あー、あ。」
腕で目を覆ったまま、暑ぃなくそ・と呟く。長く沈黙した後で、また、消え入るような声で呟いた。

 小さく、小さく、そっと。










 「……珊、瑚。」














 綾音の肩を抱く自分の手が妙に熱く思えた。少しだけ力を入れる。目を隠す腕は下ろさない。


 そして、彼の頬を一雫だけ、ぬるいものが降りていった。





 滴は陽の光を受けてどこか清く輝いて、重力に従いこめかみへと消えていく。そしてそれを追うように、また、一雫二雫と頬を滴が撫ぜた。ほろほろほろほろ、何かが壊れるように崩れるようにそれは非常に淀みなく、流れ落ちていくのだった。透明な流れはどこまでも澄んでいて、誰にも悟られることなくただ床板の隙間へと染み入っていくのである。

 ほろほろと。さらさらと。




































 ああ、そう。そうです。




 彼女は、俺にとってはまさに、『夢』そのもの、だったのでした。










 一生手に入れることなんて無いだろうと思っていた夢です。夢ですら見たことの無かった夢です。


 この数年間に、ぎゅっと濃縮して詰め込まれた優しい夢。全てをかけた夢と呼ぶにはあまりに短かったけれど、それでも確かに俺は幸せだったんだ。

 君と出逢ってからあとの時間、ずっと。













 俺の一生分の夢ぜんぶ、君が運んできて君がくれて君と在ったものだった。













































 「…んー。」
不意に下方から聞こえた声で少し目を開ける。綾音がきゅっと袈裟を握った。まだ眠っている。
 白い頬。けれど血色の良い頬。いつだったか弥勒が何かするたびに真っ赤になった彼女のそれと、なんだか酷く似ているようで、けれど決して彼女ではない。



 「…まだだよな。」
ぽつんと、誰にとも無く呟いた。














 君は居ない。戻らない。でも、君のくれた夢までは終わらせない。

 せっかく、こんなにも大きなものを残していってくれたのだから。












「なぁ、珊瑚」


















 呟きは、穏やかなぬるい風と蝉の声とにかき消された。














































 「夢?って、どんな。」

どう反応すべきか迷ったような顔で、おずおず言った犬夜叉に、からかい半分の曖昧な笑顔で答える。
「少し昔の思い出、みたいな」
「……わかんねえ…」
「解らせるつもりでは最初から話しちゃいないよ」
「この野郎」
「あはは」
 さて・と言って立ち上がり、またすたすた歩き出す。
「行きましょうか、綾音が待ってる」
「お、おう。……ほんと、明るいな、お前」
「そうですか?」
「うん」
「ま、お前ならかごめさまが例え買い物に一時間出掛けただけでも取り乱しそうだよな」
「おいてめえ!どーゆー意味だそれは!!」
「そのままです」
「何ぃ!?」
「私だって悲しくないわけじゃないんだよ、お前」
「え?」


 不意に少し低くなった声音に、きょとんと目を丸くする。弥勒は、道の向こうを見つめていた。ただ緑が広がっているだけで何も無い、道の向こう。


「ただ、あいつがずっと笑っていたもんだからな」


だから。


「勝手に、顔が笑えてくるんだよ。」

















 そう言って振り返った弥勒の笑顔が酷く優しく眩しく見えて、犬夜叉は思わず目を細めた。





 歩き出しかけて、ふっと後ろの珊瑚の墓をもう一度見てみる。陽だまりの中、やっぱりそれは白く光を帯びて見えた。







 墓と言うにはあまりに温かくて、優しい光景であった。








































 面会時間を少し過ぎた頃になって、コンコンと窓を叩く音がしてかごめは一瞬きょとんとしてからああ・と窓に手をかけた。鍵を開ける。
 「おかえり」
「おう。行ってきたぞ」
「ありがとね」
 静かに入って来てよ、見つかったら怒られちゃうんだから・一応前置きしてから、部屋に入れる。
「起きてて大丈夫なのか」
「だから、一番大変なとこはもう終わったんだってば。今なんか、妖怪に追っかけられるのに比べたってずっと楽よ」
 くすくす笑う彼女はやっぱり強い。時々、どうしてこんなにも力強く思われる時があるのか、酷く不思議になる。
 「ねえ、どうだった?」
「あ?」
「だから、弥勒さまたちよ。…あ、やっぱ良いや、それあとね。それよりちょっと考えて欲しいことあるのよ」
 存外あっさり後に回されて、いささか拍子抜けしながらも、今すぐ全てを明かす勇気は少し出そうに無かったからこっそりほっと息をついた。なんだよ・とぶっきらぼうに返しておく。
「名前よ」
「名前?」
「この子の名前!ほんっと気ぃ回んないよねーあんたは」
 呆れたように言って、脇に置きっぱなしだったメモ帳を取る。
「いくつか考えたんだけどね、でもあんまりヒネったのって、あんまり好きじゃないから…あと、女の子だし、可愛いほうが良いじゃない?だから、これで良いんじゃないかなって思って。」

 言いながらかごめがシャープペンシルの先でちょんちょんと指した名前候補は、漢字ただ一文字、メモのちょうど真ん中辺りに丁寧に綴られていた。













 『愛』。






















 「……。」
「ね、どぉ?犬夜叉。…犬夜叉ってば。どうしたの?」
黙ってしまった犬夜叉を少し怪訝に見ながら呼びかける。そして急にぱっと顔を上げた犬夜叉の顔が、なんだか寂しそうに泣きそうに見えた気がしてぎょっとした。
「な、何?どうしたの?」
「……、いや…。」
 知るはずが無い。知るはずが無いんだ、彼女は。まだ、知らない。

 けど、もしかしたら全て知っているんじゃないかという気がしてしまって、じっと見つめた。やっぱり知らないようだった、けれど。


 「…悪くねぇな」
「ほんと?」
「ああ。これで良いや」
「んー、でもまだ候補あるのよ一応。えっとね…」
「いや。」
「え?」
「これで良い」
どこか断定的な犬夜叉の口ぶりに、不思議そうに首を傾げつつも一応不満を言ってみる。大事なことなんだから、もうちょっと悩むべきだろう・と。
「何よ、候補見るくらい良いじゃ…っていうかあんたもなんか案出しなさいよ」
「良いんだよ、これで。」
 メモを見つめ、何度も何度も「良いんだ」と呟く彼の顔は、どこか、切なかった。
 「…変なの。」
ぽつんと言ったかごめは、まだその表情の意味を知らない。

 もう少ししたら、分かることだ。



























 犬夜叉は、メモに書かれた「愛」の字をいつまでも見つめていた。これで良い。これ以上に相応しい名前なんて無いだろう。

 あの二人が、あいつらが一生分の涙や笑顔や持てる感情のすべてをもって抱いた、夢だから。








 俺とかごめの子どもが背負っていく名には、少しも悪くない。



































 「あのな、かごめ……」

一分ほども黙り込んだ後で、そっと犬夜叉は話し始めた。












                                ------------------End.

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